title:新言語芸術アブラフィア ver.1.0j
ウンベルト・エーコ&木村応水 作


書類をファイルしたものがいくつかあった。何か手がかりになるもの
はないかと探してみたが、ほとんどが出版関係の見積書だった。ただ一
枚だけ、書類のなかからワープロの練習を始めた頃のものに違いない。
そのファイル名は『アブ』。このアブラフィアが事務所に届いたときの
ことをよく覚えている。タロウが子供みたいにはしゃいでいるのを見て、
ロブは愚痴をこぼし、タロウはロブをからかっていた。確かに、この
『アブ』に書かれてている内容は、自分に向けられた中傷に対するささ
やかな抵抗であり、手書き派からワープロ派に転向した放浪詩人の戯れ
のようなものにすぎないが、それでも、タロウがこの機械と向かい合っ
て、多くの組み合わせの機能に熱狂していた様子を物語っている。タロ
ウは例の青白い笑みを浮かべて、いつも口癖のように言っていた。自分
が主人公になれるような器の人間ではないと悟ったので、これからは知
的な傍観者でいようと心に誓った、と。つまり、真面目な動機がないの
に書いても無駄であり、それよりかは他人の本を書き直したほうがよっ
ぽどましで、それに有能な編集者ならそうするというのである。その彼
が、この機械に一種の幻覚作用を発見し、キーボードの上に指を走らせ
始めたのだ。まるで自分の家の古いピアノで、誰に評価される心配もな
く『猫踏んじゃった!』でも練習するかのように。タロウには何かを創
造しようという考えはなかったのだ。ただ、彼は書くということに異常
なまでの恐怖心を抱いていたので、自分のやっていることは創造ではな
く、電子機器の効果を試しているだけのことで、準備体操をしているよ
うなものにすぎないことを十分に知っていた。ところが、あの例の過去
の幻影を忘れてしまい、この機械と戯れながら、もう一度青春時代に戻
って自分を鍛え直すための公式を見つけ出そうとしていたのである。い
ずれにしろ、彼の代名詞とも言えるほどのいつもの悲観主義、過去には
決して妥協しない頑固な態度が、この機械との対話のなかでは実に従順
なものになってしまっている。生の無益なる受難に自分でも気づかない
ほど、人間のようで人間でなく、客観的で従順で無責任な、トランジス
ター化された鉱物のような記憶で機械と対話していたのである。
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ファイル名:アブ
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 ああ、何と素晴しき11月末の朝、初めに言葉ありき。起きよ、土か
ら生まれしもろきものよ、起きよ、日はまた昇る。山のあなたの空遠く、
風たちぬ、いざ生きめやも。そが願い、そが憂い、そが苦悩、鳥の歌、
花のささやき、蝶の舞い、闇のとばり一度破れなば共に去りて帰らず、
ああ、哀れ今年の秋も去(い)ぬめり。 キーを打つだけで、ひとりで
に先へ進む。ビッテ、ビッテ、シルヴプレ、パラカロ、プレーゴ。正確
なプログラムさえあれば、全文置き換えだってお望み次第。例えば、レッ
ト・バトラーという南部のヒーローと、スカーレットという自由奔放な
少女の小説を書きあげて後悔しているとする。でも心配無用、命令一発、
アブはレット・バトラーをアンドレイに、スカーレットをナターシャに、
そして舞台をアトランタからモスクワへ一瞬のうちに変えてくれる。こ
れで『戦争と平和』が完成。
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 ロブがアブラフィアを信用しない理由は理解できる。アブラフィアを
使えば文字の組み替えによってまったく正反対の内容が作り出せ、何か
予言めいたことも約束してくれるということはロブも知っていたが、タ
ロウはそのことを彼に説明しようとした。「変換ゲームのようなもので、
確かテムラーって言うんじゃなかったかなあ。あの献身的なラビが『光
の門』に到達するために用いる方法だろ?」

 タロウはロブにプログラムを見せた。それはロブにとっては、まさに
カバラのようなものだったと言える。
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10 REM anagrams
20 INPUT L$(1),L$(2),L$(3),L$(4)
30 PRINT
40 FOR I1=1 TO 4
50 FOR I2=1 TO 4
60 IF I2=I1 THEN 130
70 FOR I3=1 TO 4
80 IF I3=I1 THEN 120
90 IF I3=I2 THEN 120
100 LET I4=10-(I1+L2+I3)
110 LPRINT L$(I1);L$(L2);L$(I3);L$(I4)
120 NEXT I3
130 NEXT I2
140 NEXT I1
150 END
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「さあ、いいか、インプット? と訊いいてきたら、T、A、R、Oと
入力して、ランのキーを押してごらん。」
「タロウって無責任な人なんですね」

「ええ、引用ばかりでしてね。結局のところ、19世紀の神秘主義の研
究家たちも実証主義の犠牲者だったということです。何でも実証すれば
真実だと思っているのですからね。『ヘルメス文書』がいつ書かれたか
についての論争がいい例です。あの本が15世紀にヨーロッパに持ちこ
まれたとき、ビーコ・デッラ・ミランドラやフィチーノや、ほかにも数
多くの立派な知識人たちが真実を発見しました。しかもそれは、きわめ
て古い知識、古代エジプト人よりも、あのモーゼよりもさらに古い知識
が織りこまれた作品だったのです。プラトンやキリストが後から陳述し
ていることがすでに書かれてていたのですからね」