title:新言語芸術アンフィオニイ ver.2.2j
木村応水 作
1995


 『オイリュトミー芸術』 ルドルフ・シュタイナー
 人間が自分の内部を他人に向かって開示するための表現方法は御存知
のように言語です。言語によって、人間は自分を最も内的な仕方で表現
します。したがって、空間的、時間的に外なる世界を題材にする諸芸術
に加わり、あらゆる時代に、それに相応しい在り方で、時には他の諸芸
術と結びついて、言語による芸術による芸術、つまり詩が現われました。
 言語芸術、私はここで詩を、後に述べるような理由から、言語芸術と
呼びたいのです、この言語芸術は他の諸芸術より一層普遍的です。何故
ならば言語芸術は、様々な形式を持つ他の諸芸術を自分の中に取り入れ
ることができるからです。諸芸術という言語芸術は、ある詩人の場合に
はより造形的に、他の詩人の場合にはより音楽的に作用する、と言うこ
とができます。絵画的に作用する諸芸術について語ることさえできます。
 言語は実際、人間の魂の普遍的な表現手段です。そして偏見のない眼
で人類太古の時代を見ることができる人は、太古の諸言語の中に極めて
芸術的な要素が実際に行き渡っていたのを認めることができるでしょう。
太古の諸言語は、今日の文明社会の諸言語に比べると、はるかに多くの
ものが、人間存在全体の内部から堀り出されています。もし私達が偏見
のない眼でこの進化を遡って行きますと、ほとんど歌のように現われる
原言語にまで到ります。そこでは脚や腕の動きが生き生きと言葉につき
したがっていたのでした。それ故太古の言語が高揚した表現形式や宗教
的な礼拝形式を伴って何かを表現しようとする時、一種の舞踊が、これ
付け加わったのです。

 目に見える形式において歌われ、語られること、これが本質なのです。
このことはすべて、人間存在の内的器官の中から生じることができる、
といえます。「私の場合、言語と音楽で充分だ。どうしてその上芸術を
もっとふやす必要があるのだ。オイリュトミーなど少しも欲しくない」、
という人がいたとしても、その立場から当然です。俗人が俗人の立場に
たつのは常に正しいことです。どうしてそういう立場を持ってはいけな
いのでしょうかどんな立場にも、必ずそれなりの正当性があります。で
もそれは、芸術的な立場、真に内的な立場ではありません。なぜなら、
真に芸術的な人間は、芸術の及ぶ限りのあらゆる事柄に対して関心をも
つ筈だからです。彫刻家に鉱石、粘土、大理石が仕えるように、画家に
色彩が仕えるように、もしも自然の中から取り出され、自然にふさわし
い仕方で発展されたオイリュトミーが、芸術手段として、自己をさし出
そうとしているとすれば、芸術的な人間なら、この分野においても芸術
を更に拡げることに熱中することができる、と私は言いたいのです。


 『特性のない男』 ムシル
 トウツイ局長は眼を伏せてズボンの小さな塵を見つめたので、彼の微
笑は同意の微笑とも解釈できた。
「実際、もっとも重要なもの、もっとも偉大なものとはなんでしょう」
とアルンハイムは検討するように言葉をつづけた。「宗教でしょうか」
トウツイ局長は微笑をふくんだ顔をあげた。アルンハイムはその言葉を、
かつて閣下がそばにいたときほど力強く、一切の懐疑なしに、言ったの
ではなかったけれでも、その声には、依然として、こころよい響を立て
る真面目さがこもっていた。
 ディオティーマは夫の微笑に逆らって言葉を挿んだ、「もちろんです
とも。宗教だってそうですわ!」
「たしかに、しかし、われわれは実際的な決断を迫られているのです。
あなたは、この運動のために現代的な目標を発見しなければならない委
員会に僧正を一人くわえようと考えたことがおありですか。神は、結局、
非現実的なものです。われわれはフロック・コートを着て、髪を剃り、
髪に分け目を入れた髪を想像するのです。そして、宗教のほかにはなに
があるでしょうか。国民でしょうか。国家でしょうか」ディオティーマ
はこれを聞いてよろこんだ。トウツイは、ふだん、国家を女とともに語
ることのできない男だけの問題として取り扱っていたからである。しか
し彼は、いま、沈黙していた。そしてただ、眼に、この問題についてな
らもっと言うことがある、と語らせていた。
「科学でしょうか」とアルンハイムは問い続けた。「文化でしょうか。
芸術がまだ残っていますね。実際、存在の全体とその内的秩序とをまず
第一に反映しなければならないのは芸術であるはずです。しかし、現代
芸術の状況はわれわれのよく知る通りです。すなわち、くまなく蔓延し
た支離滅裂、脈絡を失った極端にほかなりません。スタンダール、バル
ザック、フローベールがすでにその発端において、あたらしい、機械化
された社会生活と感情生活の叙事詩を創造しました。ドストエフスキー、
ストリンドベルク、フロイドが深層の魔的世界を暴きました。現代に生
きるわれわれは、これらすべてにおいてもはやなすべき何ごとも残され
ていない、という深刻な感情をいだいているのです」

「でも、あの人の引用の仕方に、お気づきにならなかったこと?」
「引用の仕方ね、待ってくれよ、どうもはっきりおぼえていないが、あ
のとき、確かに何か気になることがあった。彼は、ひどくたくさん引用
する。古典作家を、引用する。彼は・・・・彼は、もちろん現代作家も
引用している。そう、いま思い出したが、これは教師としては革命的な
ことだけれども、彼は教育界の偉人はもちろんのこと、当今の飛行機設
計家だとか、政治家だとか、芸術家などの言葉も、引用している。でも、
これは、結局、ぼくがいまさっき言ったことと同じだね?・・・・」彼
は、路線を間違えた思い出が車止めにぶつかる際に人がいだく気おくれ
した感情を抱きながら、話を終えた。
「あの人の仕方はね」と、アガーテが補足した。「たとえば、音楽では
リヒャルト・シュトラウスまで、絵画ではピカソまで、ためらいもなく
引用することよ。でも、あの人は、例としては、少し筋違いな例なので
すけれど、少なくとも新聞でこっぴどく非難されるということで、いわ
ば新聞紙上の居住権をこれまで得た名前でなければ、けっして口にしな
でしょうね」
 その通りであった。そして、これこそ、ウルリッヒが思い出そうとし
て思い出せずにいたことであった。彼は目をあげた。アガーテの答えに
は、鋭い批判力があったので、彼はうれしかった。「そんな風にして彼
は、次第に指導者にのしあがったのでね。一流人の一人として、時代の
あとを追いかけながらね」と、彼は笑いながらつけ加えた。「彼のあと
からくるものは、みんな彼を前に見るわけだね! でも、きみは、われ
われの時代の一流人が好きかい」
「知らないわ。ともかく、私は引用なんかしなくてよ」


 『神々の復活』 メレジュコーフスキイ
「ダ・ヴィンチ? 博士かね、学士かね?」
「博士でも学士でもなくて、ただの画家のレオナルドです。例の『最後
の晩餐』を描いた男です。」
「画家? じゃ、絵の話でもするのかね?」
「いえ、自然科学の話らしいです。」
「自然科学のはなし? 一体いまの画家はそんな学者になったのかね?
レオナルド?‥‥どうも聞いたことがない‥‥何か著述でもあるのかね?」
「何もありません。あの男は出版しないのです。」
「出版しない?」
「人の噂では、左の手で書くんだそうです。」といま一方の隣にいた男
が口を入れた。「しかも、誰にも分からない秘密な文字だそうです。」
「誰にも分からないように? 左の手で?」いよいよ呆れながら、学長
は繰り返した。「それはきっと何か滑稽なものだろう。え? わしの考
えでは、王や貴婦人がたを慰めるために、いわば骨休みに喋らせるんだ
ろう?」
「或いはその通りかも知れません。まあ、一つ見てみましょう‥‥」

 計算を終えると、彼は卓の隠し引出しから日記を取り出し、鏡に映さ
なければ読めない逆文字を左手で書きながら、『学問の決闘』に依って
呼び起こされた感想を認めた。
『学者や、文人や、アリストテレスの弟子をもって自認する人たちは、
孔雀の羽を飾って歩く烏である、広め屋である、他人の仕事の模倣者で
ある。しかも彼等は発明者たる余を軽蔑する。しかし、余はマリウスが
ローマの貴族に答えたように、彼等に向かってこう答える事が出来る、
汝らは他人の仕事をもって身を飾りながら、余自身の結果をも奪おうと
している。
自然の研究者と個人の模倣者との間には、物それ自身と鏡中の影ほどの
相違がある。
彼等は、余が彼等と同じような学者でないが故に、自分の思想を適当に
表現することが出来ない、従って、科学を語ったり、記したりする権利
がない、とそう考えている。しかし、彼等は余の力が言葉にあるのでは
なくして、すべて昔から巧みに書いた人々の教師たる、経験の中に存す
る事を知らないのである。
彼等の如く、個人の書を引證する事は、嫌いでもありまた出来もしない
から、余は書物以上に真実な、一切の教師の教師たる経験を引證するの
である。』

 『哲学的経験論の叙述』 シェリング
 何かをすでに知っている人は、はじめて学ぼうとする人よりも無限に
多くのことを古代人のうちに見い出すのである。

 『麻薬常用者の日記』 アレイスター・クロウリー
 新約聖書に馴れ染んでいれば、たとえどんなに聖書の内容を信じてい
なくても、何か引用文を見ると重大な意味があるのではないかと思って
しまう。


 『言葉と物』 ミシェル・フーコー
 そしてニーチェがわれわれのために開いたその哲学=文学的空間に、
いまや言語が姿をあらわし、その謎めいた多様性を制御することが必要
とされるであろう。そのとき、おびただしい投企(妄想かもしれない。
さしあたってだれがそれを知ることができようか?)としてあらわれる
のが、あらゆる言説(ディスクール)の普遍的形式の諸テーマであり、
同時に世界の完全な非神話化でもあるような世界の全体的釈義の諸テー
マであり、同時に世界の完全な非神話化でもあるような世界の全体的釈
義の諸テーマであり、記号(シーニュ)の一般理論の諸テーマであり、
さらに、あらゆる言説を唯一の語に、あらゆる書物を一ページに、全世
界を一冊の書物にあますところなく変形し、完全に吸収するというテー
マ(たぶん歴史的に見て最初のものだった)にほかならない。


 『位置解析について』 ライプニッツ
 ごくわずかの人にしかわからず、学問にとって無益のようにみえがち
な観察を、自然史のはたらきを基礎づけることによって公にしらせるこ
とは、国家の利益につながる。そういうはたらきにおいて、目録の形で
実験が報告されることになる。というのも、一つのことばかりやってい
る者は、新しいものを発見することがまれである。なぜなら、対象とす
るものがやがて尽きてしまうからである。しかし、たがいにずっとはな
れあったものを数多く探究し、それらを結合法的にあつかう天分に恵ま
れた者については、事物相互の新しい結びつきがたくさん期待できる。
もし仮に人間が既知の発見のこういう目録の作成に着手するなら、そこ
から学問や技術のすべてにおける新しい発見が芽生えてくることであろ
う。
 そうしたあかつきには、良識と勤勉の持ち主たちが協力し、書物で理
解されたり、たんに言い伝えで保存されているだけの既知の実験を集め、
書き付け、順序よくならべ、いろいろな分類によって区別しなければな
らなくなろう。


 『美学』 ヘーゲル
 この自我という芸術家は一切のものの創造者であり、自分だけが自由
だと思うのであって、はたしてこの主我性が創造的であるならば、彼は
天才的であり、一個の天才である。その本質はこの天才的な生にある。
したがって天才であるために必要なことは、これがすなわち天才的な生
なのであるが、主観が他の人々の重要視するものや彼らを囲繞するもの
をすべて脱却し、人間にとって即自対自的価値を有する如上の諸規定を
すべて脱却することであり、主観がそれらの規定を自分の措定したもの
として生産し、これら一切を単なる所産や仮象とみなすことである。主
観によって創造されたものであり、しかもただ仮象として創造されたも
である。かくしてすべての規定性にとらわれず、これを自分の措定した
ものとしか認めないものは、神的天才である。


 『エセー』 モンテーニュ
 多くの人々が自分の勉強を倹約するために使うこの陳腐な文句のこね
合わせは、やはり陳腐な問題にしか役に立たない。まさに学問の滑稽な
成果であって、ソクラテスはこのことでたいへん面白くエウチュモデス
をやりこめている。私は著者が一度も研究も理解もしたことのない事柄
を元にして、あちこちの物知りの友人たちに、書物を書くためのあれこ
れの材料の研究をゆだね、自分は計画を立てるだけで、わかりもしない
薪の束を巧みに積み上げて、自分のものとしてはせいぜいインキと紙を
出すぐらいで、書物を作るのを見たことがある。これは真面目に考えれ
ば、書物を買うか、借りるかすることであって、作ることではない。人
々に、自分が書物を作ることができることではなくて、皆がうすうす思
っていた通り、できないことを教えることである。ある裁判長は私の面
前で、判決文の中に、ほかからの引用を二百ばかり積み上げたことを自
慢した。私は、そんなことを得々と皆にしゃべっては、皆から与えられ
る光栄を自ら消すようなものだと思った。私の考えでは、こういう問題、
こういう人物にしては、あまりにも子供じみたばかげた自慢だと思う。
私はたくさんの借り物の中から、どれかを盗んで、変装させ、新しい役
に立てることができたら嬉しいと思う。人から、「借り物の本来の意味
を理解しなかったからあんなことをする」と言われるのを覚悟の上で、
それに自分の手で、何か特殊の意味を与えて、それだけ純粋の借り物で
ないように見せる。他の人々は盗んで来た品物を並べ立てて数え上げる。
したがって、法律の前には私よりも罪が軽い。われわれのように自然を
友とする者は、創意による名誉を引用による名誉よりも、比べものにな
らぬほど大きく望ましいと考える。


 『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ
 急に態度を和らげて、彼女が言う。
「子供みたいな真似はやめなさいよ、ヴィクトール。もう一度だけ赦し
てあげるから。昨夜のことは、ちょっとしたアクシデントで、以前の悪
習がまたちょっと出ちゃっただけなのよね。あんたが本さえ書き上げれ
ば、すべてが変わるわよ」
私は問うた。
「どんな本のことだい?」
彼女は、私の“原稿”を机から持ち上げた。
「この本よ。あんたの本よ」
「私が書いたものは、その中にたったの一行もないよ」
「二百頁近くもタイプしてあるわよ」
「そう、雑多な本からの書き写し二百頁だ」
「書き写しですって? わからないわ」
「姉さんには、いつまでたっても何もわからないね。この二百頁はね、
ほかのいろんな本から引き写したものなんだ。この中に、私のオリジナ
ルはほんの一行もないんだよ」
彼女は私を見ていた。私はびんを上げた。そして飲んだ。ゆっくりと。
彼女は首を振った。
「信じられない。あんたは酔っているわ。でたらめを言っているのね。
どうしてあんたが、そんなことをするわけがあるの?」
私は冷笑した。
「姉さんに、私が執筆しているように思わせるためさ。だがね、ここ
じゃ、執筆なんかできやしない。姉さんに生活を引っ掻き回され、四六
時中監視され、書くのを妨げられる。それでなくても、姉さんの姿を見
るだけで、姉さんがそこにいるだけで、私は書けなくなるんだ。姉さん
のせいで、何もかも壊れ、何もかもだめになり、あらゆる創作、生活、
自由、インスピレーションが無に帰してしまう。子供の頃から、姉さん
は、私をもっぱら監視し、指図し、うんざりさせてきたんだ、子供の頃
からね!」
彼女は、いっとき無言でいた。それから、部屋の床を、擦り切れた敷物
を見つめたまま、彼女は言った。唱えるように言った。
「私は、あんたの仕事のために、あんたの本のためにすべてを犠牲にし
たわ。私自身の仕事、私の顧客、私の晩年。私は、あんたの邪魔になら
ないようにと思って、自分の家の中でもつま先立ちそうっと歩いたもの
よ。ところがあんたは、二年近くもここで暮らしていて、たったの一行
も書かなかったのね。あんたは、食べて、飲んで、煙草を吸うだけなの
ね! あんたなんて、ただの怠け者の、何の役にも立たない、酔っ払い
の、寄生虫よ! あんたなんか、あの汚い小さな町で、そしてあの汚ら
しい本屋で埋もれるままにしておけばよかった。あんたは、あそこで、
ひとりで、二十年以上も暮らしたのよね。どうしてあんたは、私に邪魔
されることのない、誰ひとりあんたの邪魔なんかしないあの土地で、一
冊の本を書かなかったの? ねえ、どうして? なぜなら、あんたには、
並み以下の本のどんなつまらない一行さえ、書こうと思っても書けない
からよ。たとえ最高の境遇に恵まれ、最良の環境を与えられてもね」


 『贋救世主アンフィオン ドルムザン男爵の冒険物語』アポリネール
「おれをきみはガイドだと思っているのかい? そこらにいるガイドだ
と」彼は、むっとして言った。
「うん、だって噂によれば・・・・」と私は口ごもった。
「いやいや! 誰だか知らないがふざけたこと言ったもんだな。それに
しても、きみのいいぐさときたら、まるで、高名な画家に建築の方は調
子よくいっていますか、ときくようなものさ。おれは芸術家なんだぜ。
その上にね、おれ独自の芸術を発見したのさ。そいつを創りだせるもの
はおれだけだよ」
「新しい芸術だって? 驚いたね!」
「からかうんじゃないよ、とかれは厳しい調子でいった。こっちは真面
目なんだぜ」
私は非礼を詫びた。するとまた穏当な調子で、
「一切の芸術の教えを受けたおれは、そのいずれにおいても衆に抜きん
でている。けれども、あらゆる芸術はもうゆきづまっているんだ。画家
として名をあげることに絶望して、おれは自分の絵という絵はすべて焼
いてしまった。詩人の栄誉もあきらめ、約十五万行の詩を引き破いてし
まった。このようにして美学の自由を確立して、アリストテレスのペリ
パトス学派に則って新しい芸術を発見したのだ。おれはそいつをアン
フィオニイと名付けた。昔アンフィオン(ジュピターとアンティオープ
の子。音楽の神。その竪琴の響きに、石までもその周囲に集まったとい
う)が、町をつくる切り石や種々の材料をよせ集めた不可思議な力の思
い出としての名だ。
 なおアンフィオニイ(アンフィオンとシンフォニイとを結びつけたア
ポリネールの造語)を創り出す人は、アンフィオニストと呼ばれる。