title:覚醒ツール ver.1.0j
木村応水 作
1995


 『華氏四五一度』 レイ・ブラッドベリ
 書物とは、忘れ去ってしまうには惜しい事物を保存しておくための道
具で、書物自体には、なんら魔術的なものは存在しておらん。魔術的な
ものがあるのは、書物が語っておるその内容です。たしかにそれは、宇
宙についての断片的な知識をつづりあわせてじつにりっぱな衣服を、わ
れわれに贈ってくれる。

 「いや、そんなふうに信頼されても迷惑だ。必要な書物を集めきった
となれば、私たちはまた、新しい希望、もっとむずかしい問題を解決し
たがるものだ。むしろここで、ひと息つくべきじゃないかな。むろん書
物は大事なものさ。そのほか、比較的小さな問題は、まあ、このさき千
年もかけて、ひとつずつ、解決していったらいいだろう。ありがたいこ
とに、書物は私たちに教えてくれる。私たちがいかに下らない存在かっ
てことをな。書物とは、いわばシーザーの近衛兵のようなものだ。ロー
マの街頭を行進していながら、小声で、“忘れるな、シーザー、おまえ
もまた、ただの人間であることを”とささやいておった近衛兵にな。私
たちはだれだって、世界じゅうを飛び回ることなどできはせん。そんな
時間もないし、金だってなし、そんなに大勢の友人を持っておるわけで
もない。むろん、あんたの探し求めておるものが、この世界のどこかに
あるかは、わかっておる。だが、普通の人間であるかぎり、その九十九
パーセントまでは、書物のうちに見い出すほかに方法がない。確証は求
められるものじゃない。なんによらず、ひとつのもの、人間、機械、な
いしは図書館に、それがあると考えるのはむりな話だ。自分の力にふさ
わしいものだけを、自分自身のうちにしまいこんでおくのが精一杯で、
それだけやっておけば、万が一、溺れて死ぬようなことがあっても、救
いの岸へはむかっていたことを知って、満足して死んでいくことができ
るはずですよ」


 『無知の涙』 永山則夫
 私はこの頃本の見方が変わってきた。たとえば前は、アリストテレス
はこう言った、とかなんとか聞けば、うんなるほど、とすぐ思ったが、
この頃では、直接アリストテレスならばアリストテレスのものを読なけ
れば気がすまなくなってきた。無論それが、私にとっては分からなくて
も大したことではない。要するに問題にじかにぶつかってみることが大
切だと考える。


 『一千一秒物語』 稲垣足穂
 別に自分は本当に窮地にあると思ったわけでないが、この時分、人前
で涙を落としたことが二、三回あった。が、窓外に葉桜の盛り上がりが
見える明るい階上の応接間で、黙って聴いていた出版者はついに、「そ
れはお気の毒ですな」と云った。そして処世訓めいたことを一時間にわ
たって聞かせたが、「純粋に行こうとするなら何よりも先に強くならな
ければならぬ。絶対に悲鳴を上げてはなりませんぞ」という言葉だけが、
耳に残っていた。


 『疲れた男のユートピア』 ボルヘス
 「百歳にもなると、人間は愛や友情に頼らずにすむ。さまざまな災厄
や不本意な死に怯えることもない。芸術や、哲学や、数学のいずれかに
精進したり、独りチェスの勝負を楽しんだりする、その気になったら自
殺する。人間が己れの生のあるじならば、死についても同じである」
「それは、どこかからの引用ですか?」
「そのとおり。もはやわれわれには引用しか残されていません。言語は
引用のシステムなのです」


 『未知の次元』 カルロス・カスタネダ
 「ヘナロが愛しているのはこの世界だ」と、彼は言った。「ヘナロは、
いま、この巨大な大地を抱きしめていたのだ。だが、小さな彼にできる
のは、この大地の中で泳ぐことだけだ。それでも大地はヘナロが愛して
いること知っており、ヘナロのことを気にかけている。だからヘナロの
生命はあふれんばかりに満たされており、どこにいようと豊かでいられ
るのだ。ヘナロは愛の道を歩きまわっているから、どこにいようと完全
に満たされているのだ」
ドン・ファンはわたしの前にしゃがんだ。そして大地をやさしくなでた。
「ここが二人の戦士が好むところだ」と彼は言った。「この大地、この
世界、戦士にとってそれ以上の愛はありえない」
ドン・ヘナロは立ち上がって、ドン・ファンのそばにしゃがみこみ、し
ばらくのあいだ二人でわたしたちをまじろぎもせずじっと見ていたかと
思うと、二人そろって腰をおろし、あぐらをかいた。
「ゆるぎない情熱をもってこの世を愛するときにのみ、人は悲しみから
解放される」とドン・ファンは言った。「戦士がいつも嬉々としている
のは、その愛が不変で、愛するこの世のふところに抱かれ、思いがけな
い恵みを授かるからだ。悲しみは、自分の存在を保護してくれるものに
たいして憎しみを抱く者だけが抱く感情だ」
ドン・ファンはまた地面をやさしくなでた。
「最後の休息のときまで生きて、あらゆる感情を理解してくれるこのい
としい存在が、わたしを慰め、わしの苦痛をいやし、わしがそれへの愛
を完全に理解したとき、はじめてそれが自由を教えてくれたのだ」
彼は息をついた。あたりは恐ろしいほどの静けさに包まれていた。
風が静かに吹きぬけ、遠くで犬の吠える声が聞こえた。
「あの遠吠えを聞け」とドン・ファンがつづけた。「ああして、わしの
愛するこの世界は、お前にたいするこの最後の教えに手をかしてくれて
いるのだ。あの吠え声ほど悲しく聞こえるものはない」
私たちはしばらく黙りこくっていた。あの一匹の犬の吠え声があまりに
もの悲しく聞こえ、あたりはあまりにも深い静けさに包まれていたので、
わたしは苦痛をおぼえた。その吠え声はわたしに、自分の人生、自分の
悲しみ、そしてどこへ行って何をすればよいのかわからないでいる自分
のことを考えさせた。
「あの犬の吠え声は人間の夜の声なのだ」ドン・ファンは言った。「そ
れは南のあの谷にある家から聞こえてくる。犬は人に隷属した生涯の友
なので、人はその悲しみ、その倦怠を自分の犬の声をかりて叫ぶ。自分
の退屈でやりきれない人生から解放しにきてくれと、ああして死に頼ん
でいるのだ」
ドン・ファンの言葉が、わたしの心の最も不安定な部分に触れた。わた
しは彼が自分に語りかけているのだと感じた。
「あの吠え声がかもしだしている淋しさが、人間の感情を語っている」
と、彼はつづけた。「その全生涯がある日曜日の午後のようだった人、
つまりまったくみじめとは言えないが、暑くて、手持ちぶさたで不快な
午後のような生涯を送った人たちの感情を語っているのだ。彼らはやた
らと汗をかいてどたばたと騒ぎ立てるが、どこへ行けばよいのか、何を
すればよいのかわからない。そんな午後が彼らに残したものは、どうに
もならぬ苛立ちと倦怠の記憶だけだ。そして、突然そんな午後が終わる
と、もう夜になっているのだ」
彼はわたしが前に話したことのある七十二歳の男のことを話しはじめた。
その男は、人生があまりにも短いので、少年だったのはつい昨日のよう
におもえると愚痴をこぼした。その男は私にこう言ったのだ。「十歳の
ときに着ていたパジャマのことをいまでもおぼえている。その日から一
日しか経っていないようだ。あれから時間はどこへ行ってしまったのだ
ろうか?」
「その毒を中和する解毒剤がここにある」と、ドン・ファンは地面をな
がめながら言った。「呪術師の説明はまったく精神を解放するものでは
ない。お前たち二人を見るがいい。お前たちは呪術師の説明を聞いたが、
それを知ったからといってどうということもない。お前たちはこれまで
になく孤独だ。お前たちを庇護してくれる存在へのゆるぎない愛がなけ
れば、孤独が淋しさをともなうからだ」
「このすばらしい存在への愛だけが、戦士の精神に自由をもたらす。自
由は喜びであり、有能であり、いかなる争いに直面してもゆるがない奔
放さなのだ。これが最後の教訓だ。この教訓はいつも最後の一瞬、人が
死と直面してひとりぼっちになるとき、その究極の孤独の瞬間のために、
とっておかれる。そのときになってはじめて、この教訓が意味をもつ」


 『われら』 ザミャーチン
 一般的に言って、未知なるものはオルガニックな人間にとって敵対的
であって、文法の中に疑問符というものがまったくなくなり、ただ感嘆
符と句読点だけになった時に初めて、ホモ・サピエンスはその語の完全
な意味において人間たり得るのであることは、論をまたない。


 『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』 A.アルトー
 ところで、我々は知る必要があり、知ることしか必要でないと私は思
う。もし我々が愛すること、それも一度でも愛することができるのなら
ば、知識は無用だろう。だが、創造の豊かさと重みそのものとから生じ
る一種の致命的な掟の働きかけによって、我々は愛するすべを忘れてし
まった。我々は首まで創造の中に浸っている。我々の器官すべて、堅固
なものも、微妙なものもそこにどっぷりと浸っている。そして、これら
の器官がこの世界に我々をつなぎとめ、我々にもっぱらこの世だけの現
実を信じこませる傾向がある時、それらの器官を段階的に配置した道を
登って神にまでたどりつく事は困難である。絶対とは抽象であり、そし
て抽象は退化した我々人間の状態に逆らう一つの力を必要とするのだ。


 『救われた舌』 エリアス・カネッティ
 《人間の矛盾を持った人間、というわけね! お前はよくまあそれを
選び出したもんだわ! お前はそれを引用する自分の声をよく聞くべき
だったわ。まるでお前が火薬でも発明したみたいに。まるでお前が何や
ら訳の分からぬことをしでかして、今それを後悔する羽目に陥ったみた
いに。お前は何もしなかった。お前の屋根裏部屋でただの一晩だって自
分で稼いだことはなかったわ。お前の読んでいる本は他人がお前のため
に書いてくれたものです。お前は自分が喜ばしいと思うものを選び抜き、
それ以外のものはすべて軽蔑している。一体お前は本当に、自分が人間
だとでも思っているの? 人間というのは、人生と格闘してきた誰かの
ことです。お前にはこれまで一度でも危険な目に会ったことがある?
誰かがお前を脅したことがある? 誰もお前の鼻を打ち砕いたりはしな
かった。お前は自分の好きなことを聞き、それをあっさり受け入れるけ
ど、でもお前にはそうする権利などないわ。人間の矛盾を持った人間、
ですって! お前はまだ人間じゃない。お前は無に等しい。お喋りは人
間じゃないわ。》


 『虚空の舟』 ラジネーシ
 あるとき、誰かがホイットマンに、史上最も偉大な詩人のひとりホイ
ットマンに言った。
「ホイットマン、君は矛盾したことを言いつづけるね。ある日一つのこ
とを言うと、別の日にはその反対のことを言う・・・・」
ホイットマンは笑って言った。
「私は広いんだ。私はあらゆる矛盾を包含しているのさ」


 『ウパニシャッド』
 ヤージニャヴァルキアはいった。「ガールギーよ、問い過ぎてはいけ
ない。あなたの首が落ちてしまうといけないから。あなたはそれをこえ
て問うべきではない神格について問うているのだ、ガールキーよ。問い
過ぎてはいけない」
そこで、ガールキー・ヴァーチャクナヴィは沈黙してしまった。


 『エミール』 ルソー
 教養ある人は容易にかれの持ち物を公開しない。かれには語るべきこ
とがありすぎるし、自分に言えることのほかにもまだ多くのことが言え
ることがわかっている。だからかれは口をつぐんでいる。