title:バベルの図書館(The Trash Library) ver.3.2j
木村応水&バナバス・ストリックランド 作
1996

Stockholm Transformation 参加作品
スウェーデン・ストックホルム
1999年 4月10日〜19日

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The Holy Bible
  Come,let us go down, and there confuse there
language, that they may not understand one another's
speech.
 
 さあ われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、
 互いに言葉が通じないようにしよう。(創世記11章7節)
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 『孤独の発明』 ポール・オースター
 ひとつの言葉はもうひとつの言葉になり、ひとつの物がもうひとつの
物になる。考えてみれば記憶と同じはたらき方である。彼は自分の内部
に巨大なバベルの塔を思い描く。そこにはひとつのテクストがあり、そ
れがみずからを無数の言葉に翻訳する。思考の速度でもってセンテンス
が彼のなかからあふれ出る。一つひとつの単語がそれぞれ別の言語から
放出される。彼のなかでけたたましく騒ぎたてる千もの言葉。それらの
言語の喧騒が、無数の部屋や廊下や階段からなる数百階建ての迷路に響
きわたる。

 言葉同士が韻を踏む。現実的なつながりは何もなくても、彼はそれら
を一緒に考えずにはいられない。部屋(room)と墓(tomb)、墓(tomb)と子
宮(womb)、子宮(womb)と部屋(room)。息(breath)と死(death)。あるい
は「生きる」(live)という言葉の文字を組み替えれば「悪」(evil)にな
るという事実。単なる小学生の遊びにすぎないことはわかっている。だ
がそれでも、「小学生」という言葉を書いている最中、八歳か、九歳だっ
た自分を思い出して彼ははっとする。こうやって、言葉を使って遊ぶこ
とができるんだということを発見したときに、突如自分のなかに感じた
力の感触がふたたびよみがえる。あのときはまるで、真理にいたる秘密
の道を見つけたような思いがしたものだ。世界の中心にひそむ、絶対的、
普遍的な、不動の真理にいたる道を。もちろん、小学生らしい熱狂のな
かでは、英語以外の言語が存在することなど考えもしなかった。小学生
としての彼の生活の外の世界に存在する、喧騒と闘争に明け暮れるあま
たの言語から成る大いなるバベルの塔のことなど、思いもよらなかった。
絶対的で不動なる真理が、どうして言語によって異なったりするだろう?


 『小悪魔』 レミーゾフ
「魔術の本はあるとも」フェドセイはきっぱり言い、みなは唇を噛んだ、
「魔術の本を書いたのは蛇さ、蛇からそれはカインの手に渡り、カイン
からハムの手に渡った。洪水が襲ってきたとき、ハムは本を岩の中に隠
した。そして洪水が終わると、ハムはノアの箱舟をおり、岩に近づき、
岩を転がして本をとりだし、息子のカナンに手渡した。こうして本はハ
ム一族の息子から息子へと代々引き継がれていった。あるときハムの息
子たちは、父ハムがその父ノアを嘲笑しようとしたように、神を嘲笑っ
てやろうと企んだ。ハムの息子たちは七色の光の高い塔を築き、神が分
け隔てた天と地を結びつけようと企んだ。だが神はお怒りになり、下を
まぜあわせ、人間どもを地上に撒きちらされ、本はソドムの手に落ちた、
そして呪われた町が犯さない罪は、ひとつとてなかった。呪われた街は
崩れ落ち、罪悪と悪行は沈んだが、呪いの沼は本を受けいれず、炎も灰
にはしなかった。本は海底深く沈んだ。その熱く燃えるアラトウイリの
岩の下に、何世紀ものあいだ本は横たわっていた。あるとき一人のアラ
ブ人が大罪を犯し、敬虔な王に捕えられ、蜜の塔に幽閉された。だが悪
魔がアラブ人に惚れこみ、本を手にいれる方法をアラブ人に教えた。魔
力によって敬虔な街は焼かれ、敬虔なる王とその神を尊ぶ軍隊は滅び、
くだんのアラブ人は蜜の塔から出て、海底へと降り、魔術の本を邸にい
れた。それ以来本は世のなかを転々と渡りあるき、ついにスハリョフ塔
の壁のなかに閉じこめられた。以来ずっと本はそこに横たわり、スハリョ
フ塔の壁のなかから取りだすことのできた者は誰ひとりいない。それは
九千と千年におよぶ恐ろしい呪いで縛られているのだ」


 『技術VS人間』 ニール・ポストマン
 タムウスはまた、グーテンベルクにたいしてテウトに言ったようにこ
う指摘したと思う。印刷という発明は「ちゃんとした使用法も知らずに
情報を受けとろうとする、……真の知恵のかわりに知恵の自惚れに有頂
天になる」大量の読者をつくりだす、と。言葉をかえて言えば、読むこ
とは、それ以前の学習形態と競合する、ということである。これはタム
ウスの判断から推論できるもう一つの技術の変化の原理である。つまり、
新しい技術は古い技術と、時間の点でも、注意力の点でも、金銭の点で
も、名声の点でも競合するが、世界観の支配の点でとくに競合するとい
うことである。この競合は、メディアがイデオロギー的傾向をもつこと
を私たちが認めたら最後、絶対的なものになる。しかもそれは、イデオ
ロギー的競合だけにおこりうるようなはげしい競合である。それはたん
なる道具対道具の問題(表意文字を攻撃するテレビジョン)ではない。
メディアが互いにたたかうのは、世界観が衝突する場合である。


 『クムビ』 ゲンナジー・ゴール
 私はかれの知的関心を知るために、かれの本に興味をもった。
私は手当たりしだいに一冊の本を取り出して、開いてみて、びっくりし
た。私の視線は純白のページの上を滑っていった。そこにはひとつの記
号も、ひとつの文字も書かれていなかった。《不良品だな。印刷所と出
版社がいいかげんな仕事をするからこういうことになるんだ》と思って
次のページを開いた。次のページも処女地のように真白だった。そこで、
私は別の本を取って、開いた。まったく同じで、文字はひとつもなく、
どのページも沈黙を守って、私の意識を、盲目の、冷ややかな静けさで
満たすだけだった。ユリア・クムビは私に背を向けて、窓辺に立ってい
た。
私 ユリアン! どうしてあなたの本は真白のページばかりなのですか?
老人 どうしてわたしに言葉が必要なんです? わたしが読むのは本で
はなくて、生活そのものが書きあげたものですからね。わたしは
どんな本も憶えていないようなことを憶えていますよ。
私 それならどうしてこのような本がここの棚にあるのです?
老人 ときどき開いてみるのです。
私 何のために?
老人 何か思い出せないことがあるときには、それが役に立つからです
よ。
私 あなたでも必要なことを思い出せないようなことがあるのですか?
老人 たまにですがね。せいぜい一年に一、二回というところでしょう。
でも、そういうときは、その白いページが役に立ちます。


 『万能図書館』 クルト・ラスヴィッツ
 蔵書第一号を例にとってみよう。その本の第一ページは白紙だよ、二
ページ目も、三ページ目も、四ページ目も、五百ページ全部が白紙だ。
これは〈スペース〉が百万回繰りかえされた本だよ」
「少なくともその本には、くだらない内容はないわけですわね」とワル
ハウゼン夫人が言った。


 『ルイーズの肉体』 ジャン=ミシェル・ガルデール
 図書館、生者の町の中の死後の世界の飛び地、人間が今すぐに自分の
死と連絡をとりうる場所。精神によって生きられた死、横断され、語ら
れ、再言及され、目に見えず、言葉の真ん中に泊まりこみ、際限もなく
繰り返してとりあげられる死。無限に忍耐強い死、死について忍耐力を
まだ語るというのは無駄なことだ、死はそれに先立ついっさいのものに
対する根源的忘却なのだから。


 『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスレー
「シェイクスピアなんか読みますか?」図書館のそばを通って生化学実
験室へゆく途中で蛮人がたずねた。
「いえ、全然読みません」と女教師は顔を赤らめながら言った。
「われわれの図書館には」とギャフニー博士が言った、「辞典類しかあ
りません。青年たちが気晴しが欲しいと思えば、触感映画(フィーリ)
へゆけばいいのですから、若い人たちに孤立的な娯楽は奨励しません」


 『特性のない男』 ムシル
 シュトウム将軍は、自分はこの図書館とは非常に親しいと答えた。
アルンハイムは、それは賞賛に価することだと思った。
「現代ではもうほとんど著者だけしかおらず、本を読む人間は一人もい
ません」と彼は続けた。「将軍は毎年何冊の本が印刷されるか、自問さ
れたことがありますか。わたしの記憶に間違いがなければ、ドイツだけ
でも毎日百冊以上もあります。それに千冊以上の雑誌が毎年創刊されて
いますよ!だれもが書いているのです。だれもが自分に合いさえすれば、
どんな思想でも自分の思想として利用しています。全体に対する責任を
考えるような人は、ひとりもいません! 教会がその影響力を失ってか
らというもの、もはやなんらの権威もなく、われわれは混沌の世界に住
んでいるのです。教育の手本もなければ、教育の理念もありません。こ
うした状況下のもとでは、感情も道徳も錨を失って漂流し、もっとも堅
固な人さえ動揺し始めるのは、至極当然のことですよ!

 戦略のうちで、最も重要なことの一つは、敵の勢力を明確に把握する
ということである。「だからわたしは」と、将軍は続けた。「われわれ
の世界的に有名な、宮廷図書館の入場許可証を手に入れさせたのだ。そ
して、わたしが身分を明かすと、一人の図書館員が愛想よく利用させて
くれたのだが、彼の案内で、敵の戦線に侵入することになったのだ。わ
れわれは、この巨大な蔵書を歩測したが、わたしは別にショックは受け
なかったと言うことができる。この本の行列は、守備隊の観兵式に較べ
て、まあ悪くはないというところだからね。ところが、しばらくして、
頭の中で計算をせずにはおられぬ羽目に陥った。だが、これが思わぬ収
穫だったというわけだ。いいかね、以前わたしはこう考えていた。この
図書館で毎日本を一冊ずつ読んでゆけば、なるほどたいへんな努力を要
することにはちがいないが、いつかはそれを読み終えるはずだし、そう
すれば、たとえ一、二冊省いたとしても、精神生活におけるある種の地
位を要求することができるだろう、とね。ところがだ、その図書館員が、
何と言ったと思う。われわれの散歩の終らざるが如く、とぬかしおった
よ。そこで、わたしは、いったいこの気狂いじみた図書館には、何冊本
があるのかね、と聞いてみたんだ。すると、奴さんが答えるには、なん
と三百五十万冊!! 奴がそう言った時、われわれはちょうどおよそ七
十万冊の本のそばにいたというわけさ。が、わたしは、その瞬間から、
休まず計算を続けたのだよ、ま、くどくどは言うまい。わたしは、役所
に帰って、もう一度紙と鉛筆で計算してみた。こういうやり方で、わた
しの決心を貫こうとすると、なんと一万年の歳月が必要なんだ!


 『モンテ・クリスト伯』 アレクサンドル・デュマ
「ローマでは、図書室におよそ五千冊ばかりの書物を持っていた。それ
をたびたび読みかえすうち、うまく選択した百五十冊の本さえあれば、
それが人間のあらゆる知識を完全につづめたものとはいえないまでも、
少なくも知っておいて役立つもののすべてが得られることを発見した。
わしは三年の間、くり返しこの百五十冊の本を読んだ。そして、逮捕さ
れたときには、それらをほとんどそらんじてしまっていた。牢にはいっ
てから、わしはちょっと記憶をはたらかせただけで、それをすっかり思
い出すことができた。いまでも、トユキューディデース、クセノポーン
ーネス、プルータルコス、ティトス・リウイウス、タキトウス、ソトラ
ダ、ユルナデス、ダンテ、モンテエニュ、シェークスピア、スピノザ、
マキャヴェリ、ボシュエなどをそらんじてお目にかけよう。ここに挙げ
たのは、そのうちのほんのおもだったものに過ぎないのだ。」


 『人生の短さについて』 セネカ
 かつて四万冊の書物がアレキサンドリアで焼かれたことがあった。こ
の蔵書を称えて、王家の富の最も美しい記念物と言う人もほかにはいる
であろう。たとえばティトウス・リヴィウスであるが、彼はこれを「帝
王たちの優雅と配慮のこもった選り抜きの完成品」であったとうたって
いる。だがそれは優雅でも配慮でもなく、学問的道楽であった。いや、
「学問的」ですらなかった。なぜというに、帝王たちはこれを学問研究
のためではなく、見世物のために揃えたのだからである。言ってみれば、
子供ほどの文学知識もない多くの者たちには、書物は学問の道具ではな
く、食堂の飾りに過ぎないようなものである。それゆえ、十分な冊数の
書物を求めるのはよいが、一書といえども贅沢のためであってはいけな
い。君は言うであろう、「書物のために銭をばらまくほうが、コリント
同壷(どうこ)や絵画の類いばらまくよりも、もっと立派ではないか」
と。しかし何ごとにおいても、過ぎたるは及ばざるがごとしである。香
木や象牙の書棚を欲しがったり、無名の作家か悪評の作家の作品ばかり
を探し集め、そのような何千冊もの書物に挟まって欠伸ばかりし、いち
ばん気に入っているのは自分の蔵書の装丁と表題だけだ、というような
人間がいたら、それを赦す口実が果たしてあるだろうか。だから怠惰な
人の家に限って演説集や歴史本のがらくたが、本箱に詰まって天井まで
積み上げられているのを見るだろう。今や水風呂や湯殿に交じって、蔵
書室もお屋敷の必要な飾りとして飾り立てられるご時世である。もしも
学問研究の過度の欲望から行き過ぎがあったのであれば、私ははっきり
赦したであろう。ところが、あのような蔵書、肖像ともども配列された
聖なる天才たちの著作、も、実はみせびらかしや壁飾りのために揃えら
れているに過ぎない。


 『学士院会員シルベストル・ボナールの罪』 アナトール・フランス
「たくさんのご本でございますね。ボナール先生、先生はこれをみんな
お読みになったのでございますか」
「悲しいことにみんな読みました。だからこそ何にも知らないのです。
何しろどの本もほかの本と矛盾しないものは一冊もない、したがってみ
んなを知ればどう考えてよいかわからなくなる。私はそんな状態にいる
のです」


 『決闘』 ペーター・ヴァイス
 彼女は男の留守中にいく度か彼の書いていたものを読んでみた、しか
しなんの説明も見つからなかった、彼女の記憶と合致する記述はひとつ
もなかった、彼女は自分が締め出されていることに憤慨した、あの人は
私を軽蔑しているのだ、自分に少しでも意味のあることはこの私にはわ
かりっこないと思っているのだ、と彼女はひとりできめ込んだ。彼女は
そこにあった読んだことのない本、これから読むことのないであろう本
を憎んだ、なんともとりすました高慢ちきな本だ。


 『快楽』 武田泰淳
「法燃がくりかえし読破した一切経は、この蔵経にくらべ、はるかに巻
数が少なかったのだろう。だが、智慧第一の法燃坊はまっ正直に、くり
かえし読み続け、読みおわったのだ。そして、結局のところ、自分にと
って千万巻の精神の宝庫が、無意味であったことを発見したのだ。法燃
の努力は、崇高なのは、全精力をかたむけ、すべてを棄てて、読破し研
究した書物が、自分にとって何物をもあたえてくれないと、悟ったこと
なのだ。彼は決して、最初っから、どうせ無意味だなどとは考えていな
かったのだ。彼は、誰よりも、一切経を信じていたのだ。彼は、ほかの
誰よりも、すみずみまでよく理解し、中途で投げるようなことはしない
で、困難な研究を続行したのだ。たしかに彼は、大蔵経の大海の中に沈
み、漂って、精神の緊張の波で自分自身を洗っていたのだ。ああ、あの
時代、あの人にとって『読みふける』ということが、何とすばらしい実
験であり、試練であったことか」


 『雲のゆき来』 中村真一郎
 上人は病気の身を養うために、山に入って単純な生活を実行していた。
現生的な欲望は悉く捨て「山野ガ生涯、一盂(う)ノ飯、十笏ノ室、百
納ノ衣、只此レノミ」という生き方だった。だが、「書ヲ嗜ムノ念」だ
けは「未ダ灰セズ」、「奇書ニ偶フ毎ニ炎々トシテ起ル」という具合だっ
た。
 上人は友人に宛てた手紙のなかで、「二十年来年々、書ヲ求メテ今已
ニ棟ニ充ツ、亦楽シカラズヤ」と笑っている。「天下ノ楽ミ終日几案ニ
在リ」と断言している。
 しかし、彼の読書深書は、必ずしも学者のそれではないことは、今も
述べたばかりである。甚だしく解するを求めない読書振りが、私には嬉
しいのである。そうでなくて、精進して書物の山を伐採して行く学問的
情熱の人は、尊敬すべきではあるが、私には息苦しさが先に来てしまう。
 上人の「嗜書ノ念」は、そのようなものではなかった。棟に満ちた万
巻の書のなかには、仏教の経典、和漢の古典の他にも、随分色々のもの
が挿まっていたものと思う。
 元政はやはり同じ友人に向って、本を買いそこなった口惜しさを手紙
で報告している。
「私は昨日、偶たま唐本が入荷したのを聞いたので、病中にもかかわら
ず直ぐ杖をついて本屋へ出掛けた。そして早速、書目を一覧したのだが、
そのなかに『水滸伝』があった。ところがもうそれは売れていた。誰に
売ったかと訊いたてみたが、知らない人だと云う。追いかけて行って借
りるわけにもいかない。又『古今合壁事類』というものを見付けたので、
値段を聞いてみると、これが一字一金に当たるほどの高価であって、手
が出ない。アア、吾ガ生、故紙ヲ嗜ムノ何ゾココニ至レル哉……」
 もし上人が同時代人で私とつき合いがあったとすれば、私もフランス
本を買いそこねた時には、上人の山荘に電話を入れて、口惜しさを聞い
てもらうことができただろう。同じ本屋の店先に、一刻も早く駆けつけ
る競争をして、一冊の本を奪い合いもしたことだろう。『源氏物語』と
同時に『水滸伝』にも興味を示した上人とは、『失われた時を求めて』
や『ユリシーズ』についても、尽きることのない会話が可能だったに違
いない。


 『夢想の秘密』 J.B.キャンベル
 ケナストンが『アリソンを恋う男たち』の「あとがき」に書いている
ことを読者は覚えていられようか。その著者をよく知るようになるにつ
れ、そこに見える文章が、少なくとも私にとっては、より深い意味を持
つようになったのだが、即ち、「自分の時代と自分という人間にこれ以
上言うことなしと満足しきっているのでなければ、書物無しの人生など
考えられないと私には思えるのだが、こういう本の虫族に差し当たって
必要なのは無論図書館への穏遁にあらず、精神病院への隔離だ。


『死者と結婚』 ウイリアム・アイリッシュ
 指にくっついた屑をはらうと、彼女は本を読むことにきめた。いまで
は完全な心のやすらぎが訪れていた、その奥底に、ほとんど治癒力に似
たものをひそめている平和と安穏さの感じであった。それは病気が全快
したときの気持、完全にまた一つになった気持ちであった。古い痛みの
最後の痕跡、彼女の人間としての存在の古い裂け目(事実、最も完全な
意味で、かつてはそういうものが存在していたのだ)が消されたように。
このことについては、精神病理学者ならば、学究的な論文が書けるであ
ろう。三十分かそこら、完全な安全、完全な精神的くつろぎのなかで、
家のなかを歩きまわることは、病院のひややかな科学のおよびもつかぬ
効果を与えるのだ。しかし、人間は人間であり、人間が必要としている
ものは科学ではない。それは家庭であり、自分たちの家であり、誰も自
分から奪いはしないという確信なのである。
 本を読むにはいいときだ、いや、いまをおいて、ほかにないと言って
もいい。いまならほかのことにわずらわされることもない、心おきなく
読みふけることができる。しばらくの間は、自分をわすれて本と一つに
なることができる。
 図書室に行っても、これという本をえらびだすのに、すこし暇がかか
った。書棚の前でいろいろの本のページをめくったり、二度も椅子まで
持って行って、はじめの一、二章を読んでみたりした末、面白そうなも
のがあったので、それにきめた。


 『文章教室』 金井美恵子
桜子 おかあさんったら、あたしの部屋に勝手に入らないで。読みたい
本があったらあたしに言ってから持ってってよね。
絵真 ごめんなさい、悪かったわ。
桜子 まあ、いいんだけどさ。ほら、本の並べ方にね、あたしのシステ
ムってものがあるからさ、並べ方が変っちゃうとこまるんだよね。
絵真 サラは、なんでもきちんとしてるのね。
桜子 なによ、それ? あたしがどんな本読んでるか心配なの? それ
とも何か調べたいの?
絵真 まさかあ。あたしがいつそんな心配したことある? 調べたいっ
て、何を? あんたの部屋を調べたりなんかしないわよ。
桜子 そうかしら?
絵真 それとも、見られたら困るものでもあるの?
桜子 そりゃあるのに決まってるでしょうよ。
絵真 ……
桜子 おかあさんって、他人に見られたらいやだってものないの?
絵真 あたしは人に見られて恥ずかしいものなんかないわ。
桜子 他人に見られて恥ずかしいとか恥ずかしくないって問題じゃない
わよ。
   他人に知らせる必要のないことがあるってこと!
絵真 あたしは、他人じゃないわ。
桜子 もう! いやんなっちゃうなあ。あたしではないっていう意味で、
別の人間じゃないの。
絵真 でも、他人じゃないわ。
桜子 母子って意味ではね! 
   本が読みたいんだったらさあ、おかあさん向きのを見つけてやる
よ。
絵真 どういうのがあたし向きなのよ。
桜子 小説がいいんじゃない? 女流作家の書いたんなんかが手ごろじゃ
ない?


 『抱擁家族』 小島武雄
「この小説では」と山岸はいった。「大学教授が奥さんの心情をさっし
て新しい車を買おうとして、夏休みの出張講義に一ヵ月家をあけますね。
その夫が帰って見ると、妻の様子が何となく変っていて、それを子供が
象徴的な花の匂いでかぎつけていて、匂いがする匂いがするといいます
ね」山岸はひとりでいるときには英語でひとりごとをいったりしている
が、俊介の前では、ちゃんとした日本語を使った。「夫に問いつめられ
て、妻が承認したかたちになったあと、この夫は妻をよせつけませんね。
ベッドから蹴おとしますね。そのために、妻は自殺し、夫は、相手の男
を殺し、自分も死にますね。しかも相手も男というのは、夫の実の兄で
ありながら、こういいますね、おれが悪くないとはいわないが、お前が
一番わるいのだ、とね。そして、お前はと、その弟にいいますね。本を
選ぶかピストルを選ぶか、といいますね」
「本とはその場合、バイブルだ」と俊介は起きあがっていった。


 『胸騒ぎ』 レ・ペトリュス・ボレル
「笑うでない、と言っておるのだ、テノビー。神を信じようとせぬその
不信心な笑いこそが、神のお怒りを招くのだぞ! そうでなくともお前
の信仰心のなさは、既に余りにはっきりしておるというに!」
ジョスラン伯が迷信深く、信心深く、神がかりであればあるほど、娘の
テノビーはそれと同程度にヴォルテール派であった。彼女は家庭教師に
力ずくで引っ張り出されなければ教会に行こうとはしなかったし、しか
も神へのお勤めの最中にすら、典礼書や祈祷書の代りに『マノン・レス
コー』や『運命論者ジャック』、更には『廃虚』など読んでいるところ
を、何度も父親に見つかっていた。


 『アンネの日記』 アンネ・フランク
(一九四四年四月六日、木曜日)
キティー(※アンネが日記に付けた愛称)へ、
 わたしの趣味とか、興味をもっていることについて、おたずねがあり
ましたから、お答えします。でも、、前もって警告しておきますけど、
あんまりたくさんあって、びっくりなさらないでください!
 まず第一に、書くこと、でもこれは、趣味に数えられないかもしれま
せん。二番目、系図調べ。これまでに、見つかるかぎりの新聞や、本や、
パンフレットなどで、フランス、ドイツ、スペイン、イギリス、オース
トラリア、ロシア、ノルウエイ、オランダの各王室の系図を調べました。
多くの点で、調べはずいぶん進んでいます。もうずっと前から、伝記や
歴史の本を読むたびに、目についた記述をメモしたり、ときにはその一
節をそっくり書き写したりしているからです。
 三番目の趣味は、したがって、歴史になります。いままでずいぶんお
とうさんに歴史の本を買ってもらいましたが、いつか公立図書館に行っ
て、山のような書物を片っ端から調べられる日のくるのが、待ち遠しく
てなりません。
 四番目は、ギリシア、ローマ神話です。この関係の本も、いろいろ持
っています。
 ほかの趣味は、映画スターと家族の写真を集めること。熱烈な本好き、
読書好きで、美術史や、詩人、画家などの伝記にも興味あがります。い
ずれ音楽にも熱中するかもしれません。大嫌いなのは、代数、幾何、そ
して算術。
 これ以外の学科はなんでも好きですが、なかでも歴史がいちばん好き
です!
 

 『アシスタント』 マラマッド
 彼はよく図書館にいた。ヘレンが行くたびに、ほとんど常に彼はテー
ブルに本をあけてすわっていた。彼はひまな時間をみんなここに来て読
書をしているのかしら、と彼女は思った。そのために彼に関心する気持
ちになった。彼女自身は週に二度ぐらいで、そのたびに一冊か二冊の本
を借り出した、なにしろ本を返して新しい本を借りるのは彼女の数少な
い楽しみの一つだったからだ。最も寂しいときでさえ、本のなかにいる
のは好きだった、もっとも、自分の読んでいない本がありすぎると思う
と、気が沈んだりもしたが。フランクによく会うので、はじめのうちは
気持ちが落ち着かなかった。彼はまるでこの場所にとりつかれているみ
たいだ、いったいなんのために? 図書館は図書館であり、フランクは、
彼女と同じように、一定の必要を満たすためにここへ来るのだ。彼女と
同じように、彼もまた寂しいためにたくさん読むのだ。彼があのサーカ
スの娘の話をしたあとでは、彼女はこう考えるようになっていた。次第
に彼女の気持ちは落ち着いていった。


『アルジャーノンに花束を』 ダニエル・キース
 そこでぼくは図書館へ行って読む本をたくさん借りてきた。いま本を
たくさん読んでいる。たいていの本がむずかしすぎるが、それでもかま
わない。本を読んでいるかぎり新しいことをおぼえるし、本の読み方だ
って忘れない。それが一番大切なことだ。読書をつづけていれば、持ち
こたえられるかもしれない。
 

『構造と力』 浅田 彰
 例えば、読書である。入門書を精読して手がたく出発しようなどとい
う小心さはあえて捨てたい。アドルノによれば「難解なもの、手に負え
ぬものこそお誂え向きだと思っている学生の無邪気さの方が、それだけ
が思想を唆るものであるのに、複雑なものに手を出す前に単純なことを
弁えていなければならない、と指でおどしながら思想を警める世の大人
たちの狭い了見よりも、賢明なのである」なにも、象牙の塔にこもって
一対一で難解な古典と対峙するのがいいと言うのではない。読者が常に
間主観性において存在し、テクストが常に間テクスト性において存在す
る以上、白紙の心をもつ読者がテクストそれ自体と向き合うという図は、
幻想にすぎない。むしろ、アドルノの言う「無邪気さ」を「ガキッぽさ」
と読みかえしつつ、ヤジウマ的に本と付き合えばよい。『資本論』なん
て、どう見ても寝転がって読むようにできているのだ。ちなみに、「本
と娼婦は、ベッドに連れこむことができる」と見得を切ったのはベンヤ
ミンであった。