『アンフィオニイ批評8』のソースは、
『ハイパーテクスト』
ジョージ・P・ランドゥ 著
若島 正・板倉厳一郎・河田学 訳
ジャスト・システム

p18-
他の収束点、間テクスト性、多声性、脱中心性

 バルトやフーコーやバフチンのように、デリダは連鎖(リンク)、蜘
蛛の巣(ウェッブ)、網目(ネットワーク)、綯い交ぜ(インターウォ
ーヴン)といったハイパーテクストを思わせるような術語を一貫して使
ってきた。バルトは読みうるテクストとその非直線を強調したが、彼と
対照的にデリダはテクストが開かれているということ、間テクスト性、
ある特定のテクストの内側/外側の区分の不適切さを強調する。これら
の強調がとりわけ明瞭になるのは、デリダが「あらゆるテクストと同じ
ように、少なくとも非検証(実質)的・力学的・非演繹的な方法では、
“プラトン”のテクストがギリシャ語の体系を構成する世界に巻き込ま
れることはありえなかった」と主張するときである。実は、ここでデリ
ダが記述しているのは既存のハイパーテクスト・システムである。その
システムでは、テクストの調査究明の過程にある能動的読者は、個々の
語を同語源語や派生語や対義語と結びつける語形分析機能のついた辞書
を呼び出すことができる。デリダや他の批評家たちは言語に関して見か
けの上では常軌を逸した主張をしてきた。ここでもまた、この主張は、
物理的形態ではなく電子的仮想実在という形態で読み、書くことの新し
い経済=均衡の記述だったことがわかる。
 新しく、より自由で豊かなテクストの形態(われわれの潜在的体験に
より忠実で、認識していないとしてもわれわれが実際に行っている体験
により忠実なテクストの形態)が離散的な読みのユニットに依存してい
るということを、デリダは正しく(前もって、と言ってもいいだろう)
知っていた。彼が説明しているように、グレゴリー・ウルマーが「エク
リチュールの基本的一般化」という用語で呼ぶもののなかには、「離脱
と引用の接ぎ木の可能性」もまた存在する。それは「言表され書かれた
すべての表徴の構造に属し、記号=言語学的なコミュニケーションのあ
らゆる地平の前段階ないし外部のエクリチュールにあるすべての表徴を
構成する‥‥すべての記号は、言語的なものであれ非言語的なものであ
れ、言表されたものであれ書かれたものであれ、‥‥引用され、引用符
に括られうる」。この引用可能性と分割可能性は、ハイパーテクストに
とって決定的な次の事実に現われる。それは、デリダの付言によれば、
「このようにしてこの可能性が所与のコンテクストとの関係を断ち切れ
るようになり、絶対的に制限できない方法で無数の新しいコンテクスト
を生み出している」という事実である。
 バルトと同じように、デリダもテクストを離散的な読みのユニットか
ら構成されるものだと捉えている。デリダのテクスト観は、哲学の境界
を超越する彼の「解体の方法論」と関連している。グレゴリー・ウルマ
ーが指摘するように、「この新しい哲学素の器官は口である、噛みつく
口、咀嚼する口、味わう口、‥‥解体の第一歩は噛みつくことだ」。バ
ルトのいうレクシに近いものを念頭にテクストを記述したデリダは、
『弔鐘』において「現在の作品の対象、あるいはその文体もまた
mourceauである」と説明している。この「mourceau」をウルマーは
「細片、欠片、一かじり、断片。音楽作品。一口」と訳している。さら
にデリダによれば、このmourceauは「その名が示唆し忘れられないも
のとなっているように、つねに歯で切り離されている」。ウルマーの説
明によると、これらの歯が指示しているのは「引用符、ブラケット、括
弧、言語が引用される(引用符に括られる)と、統御するコンテクスト
の支配や掌握から解放されるという効果がある」。
 デリダが模索していたのは、活字メディアで(結局のところ、デリダ
は音声文化に対峙するものとしてのエクリチュールの熱烈な提唱者なの
だ)テクストが機能する方法に関する彼の認識を前景化する方法である。
その模索は、活字メディア上の作業でその欠陥に気づいているが、自身
の聡明さにもかかわらずこの精神性の外部の道を見いだせない思想家の
立場を、おそらくはジレンマを示している。ハイパーテクスト体験が示
すところによれば、デリダは新しい種類のテクストに向けて模索してい
るのだ。彼はそれを記述し、賞賛するが、特別な種類のエクリチュール
に関連した技巧(句読点法の技巧など)という観点からしかそれを示す
ことができない。マルクス主義者がわれわれに思い出させるように、思
想は生産の諸力と諸様式に端を発している。もっとも、われわれがのち
に見るように、少数のマルクス主義者ないしマルクス学者しか文学生産
という最も重要な様式(執筆と印刷という技芸(テクネー)に依拠して
いる様式)に直接対峙しなかったのではあるが。
 このデリダ的な非連続性の強調から生まれるのは、巨大なアサンブラ
ージュ(私が他の箇所ではメタテクストと呼んでいたもの、ネルソンが
「ドキュヴァース(docuverse)と呼ぶもの)としてのハイパーテクス
ト観である。実際デリダは映画についてアサンブラージュという語を用
いており、これを印刷物に対する対抗物か代用物と捉えている。ウルマ
ーは「書字や痕跡という概念によってコラージュ/モンタージュの“言
語学”が可能になった」と指摘し、さらに『声と現象』におけるデリダ
のアサンブラージュの用法を引用している。「“アサンブラージュ”と
いう語は、ここで提唱された寄せ集めの一種が組み合わせや織込みや蜘
蛛の巣の構造を持っていることを示すのにより適当だと思われる。この
構造は感覚や力の縦糸横糸を、いっしょに束ねるのと同様、ふたたび分
離させることもできる」デリダはハイパーテクストを直観的に理論化し
ていた。これをさらに押し広げるためには、このモンタージュのような
テクスト性がエクリチュールのプロセスを表徴ないし前景化し、それゆ
えに欺瞞的な透明性が排除されるという彼の認識に着目すればよい。

ハイパーテクストと間テクスト性

 ハイパーテクストは基本的に間テクスト性を持つシステムであり、書
籍という形の製本されたテクストでは不可能な方法で間テクスト性を強
調できる。