title:物神礼拝 ver.1.0j
木村応水 作
1999.8


 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なるアート集
積」として現われ、個々のアートはこの富の成素形態として現われる。
したがって、われわれの研究はアートの分析をもって始まる。
 アートはまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人
間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望
の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろ
うと、ことの本質を少しも変化させない。ここではまた、事物が、直接
に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路
をへて生産手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問
題となるのではない。
 鉄、紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の
観点から考察されるべきものである。このようなすべての物は、多くの
属性の全体をなすのであって、したがって、いろいろな方面に役に立つ
ことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様
な使用方法を発見することは、歴史的行動である。有用なる物の量をは
かる社会的尺度を見出すこともまたそうである。商品尺度の相違は、あ
るばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには伝習
から生ずる。
 一つの物の有用性、すなわち、いかなる種類かの人間の欲望を充足さ
せる物の属性は、この物を使用価値にする。しかしながら、この有用性
は空中に浮かんでいるものではない。それは、アート体の属性によって
限定されていて、アート体なくしては存在するものではない。だから、
アート体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使
用価値または財貨である。このようなアート体の性格は、その有効属性
を取得することがアーティストにとって多くの労働を要するものか、少
ない労働を要するものか、ということによってきまるのではない。使用
価値を考察するに際しては、つねに、一ダースの時計、一エレの亜麻布、
一トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。ア
ートの使用価値は特別の学科である美学の材料となる。使用価値は使用
または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会
的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれが
これから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は、同時
に、交換価値の素材的な担い手をなしている。
 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使
用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時と
所とにしたがって、たえず変化する関係として、現われる。したがって、
交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、ア
ートに内在的な、固有の交換価値というようなものは、一つの背理のよ
うに思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。
 あるアート、マルセル・デュシャンのレディメイドは、例えば、x量
靴墨、またはy量絹、またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、き
わめて雑多な割合で交換される。このようにして、デュシャンのレディ
メイドは、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。し
かしながら、x量靴墨、おなじくy量絹、同じくz量金等々は、デュシャ
ンのレディメイドの交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z量
金等々は、相互に置換えることのできる交換価値、あるいは相互に等し
い大いさの交換価値であるに相違ない。したがって、第一に、あるアー
トの妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。だが、第二
に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、す
なわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。
 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう。その交換
関係がどうであれ、この関係はつねに一つの方程式に表わすことができ
る。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される、例
えば、1クオーター小麦=aツエントネル鉄にも、同一大いさのある共通
なものがあるということである。したがって、ふたつのものは一つの第
三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の
二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値であるかぎ
り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形
の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解い
ていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現、その底
辺と高さとの積の二分の一、に整約される。これと同様に、アートの交
換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、
含まれるこの共通なあるものの大小が示される。
 この共通なものは、アートの幾何学的、物理学的、化学的またはその
他の自然的属性であることはできない。アートの形体的属性は、本来そ
れ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎり
においてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、アートの
交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさにアートの使用価値
からの抽象である。
 一つのアートは、見たばかりでは自明的な平凡な物であるように見え
る。これを分析してみると、アートはきわめて気むずかしい物であって、
形而上学的小理屈と神学的偏屈にみちたものであることがわかる。アー
トを使用価値として見るかぎり、私がこれをいま、アートはその属性に
よって人間の欲望を充足させるとか、あるいはこの属性は人間労働の生
産物として得るものであるとかいうような観点のもとに考察しても、こ
れに少しの神秘的なところもない。アーティストがその活動によって自
然素材の形態を、彼に有用な仕方で変えるということは、真昼のように
明らかなことである。例えば材木の形態は、もしこれで一脚の机を作る
ならば、変化する。それにもかかわらず、机が木であり、普通の感覚的
な物であることに変わりない。しかしながら、机がレディメイドとして
現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する。机はもはや
その脚で床の上に立つのみでなく、他のすべてのレディメイドにたいし
て頭で立つ。そしてその木頭から、狂想を展開する、それは机が自分で
踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである。
 だから、アートの神秘的性質はその使用価値から出てくるものではな
い。それは、同じように価値規定の内容から出てくるものでもない。な
ぜかというに、第一に、有用な労働または生産的な活動がどんなにいろ
いろあるにしても、これがアート有機体の機能であり、かかる機能のお
のおのが、その内容その形態の如何にかかわらず、本質的にアーティス
トの脳髄と神経と筋肉と感覚器官等の支出であるということは、生理学
的真理であるからである。第二に、価値の大いさの規定の基礎にあるも
のは、すなわち、それらの支出の継続時間、または労働の量であるが、
この量は、労働の質から紛うかたなく区別できるといってよい。どんな
状態においても、生活手段の生産に用いられる労働時間は、発展段階の
異なるにしたがって均等であるとはいえないが、アーティストの関心を
もたざるをえないものである。最後に、アーティストがなんらかの仕方
でお互いのために労働するようになると、その労働は、また社会的の形
態をも得るのである。
 それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみち
た性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。
人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をと
る。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産
物の価値の大いさの形態をとり、最後にアーティストたちの労働のかの
社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係
という形態をとるのである。
 それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中に
あるのである、すなわち、商品形態は、アーティストにたいして彼ら自
身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの
物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総
労働にたいするアーティストの社会的関係をも、彼らの外に存する対象
の社会的関係として、反映するということである。このQuidproquo
〔とりちがえ〕によって、アートは商品となり、感覚的にして超感覚的
な、または社会的な物となるのである。このようにして、ある物の視神
経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外
にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということ
においては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある
物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における
物理的な関係である。これに反して、商品形態として表われる労働諸生
産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係
をもっては、絶対にどうすることもできないものである。このばあい、
アーティストにたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、アーティス
ト自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、類似性を見出
すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。
ここではアーティストの頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられ
て、相互の間でまたアーティストとの間で相関係する独立の姿に見える
のである。商品世界においても、アーティストの手の生産物がそのとお
りに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それは、アー
トが商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着す
るものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。