現代いけばなシリーズ
title:供花(くげ)ver.1.0j
木村応水 作
1995

Golden Temple 参加作品
栃木県・真岡市 能仁寺
1998年 9月25日〜27日

   
 『キッチン』 吉本ばなな
 春休みに入ってすぐ、私は走りはじめた。橋まで行って、家に戻って
くると、タオルや衣類をきちんと洗い、乾燥機にかけて、それから朝食
をつくる母を手伝った。そして少し眠る。そういう生活を続けた。夜は、
友達に会ったり、ビデオを見たりして、なるべくいたずらにヒマな時間
を作らないように必死で努力した。それはそれは不毛な努力だ。本当は
したいことなんて、何ひとつありはしなかった。等に会いたかった。し
かし、私はどうしても何か手や体や心を動かし続けなくてはいけない気
がした。そして、この努力を無心に続ければいつかは何か突破口につな
がると思いたかった。保証は何もないが、それまでは何とかもちこたえ
ようと信じた。犬が死んだ時も、小鳥が死んだ時も、だいたいこんなふ
うに持ちこたえた。そしてこれはその特番なのだ。何の展望もなくじり
じり枯れてゆくように日々は過ぎてゆく。私は祈るように思い続けた。
 大丈夫、大丈夫、いつかはここを抜ける日がやって来る。


 『二十歳の原点序章』 高野悦子
 山道を歩きたくなった。高原を歩きたくなった。
木の名前や花の名前に全くうといが、とにかく自然の中を歩きたくなっ
た。そしてだんだんと木の名前やら草の名前をおぼえて、草をかきわけ
て進んだり、のんびりと散歩をするかのように歩いているとき、ああ◯
◯◯◯が咲いている、小さなかわいい花をのぞかせている、なんていう
ようになりたい。
 野山を歩きながら花や草たちと対話ができたら楽しいだろうなあ。

 母はこの頃大分元気である。三月頃の弱々しい時など想像もつかぬ。
去年始めた、栄養学の通信教育も十月で終わった。今では民生委員の仕
事を引き受けて、掃除も出来ないほどの忙しさである。この頃では三、
四日掃除をしなくても、大して苦にならなくなったとのこと。考え方も
大分変わってきた。前は家中花でいっぱいだったのが、それほどでもな
くなり、その花もしっとりと落ち着いた感じのものでなく、花器にしろ、
生花にしろ、モダンな感じである。華やかになったが、しっとりした趣
がなくなった。


 『紅楼夢』 曹雪斧
「前兆って、どんな?」
襲人がびっくりしてたずねると、
「ほら、あの石段の下に立派に栄えていた海棠の花が、何の原因もなし
に半枯れになってしまったね。ぼくはそれで変わった事が起こるんじゃ
ないかと思っていたんだ。果たせるかな、あの子の上にあらわれた」
襲人はそれを聞くと、また笑いだして、やがて言った。
「あたくし、何も言うまいと思っても、言わないではいられませんわ。
若さまも取越苦労がすぎますね、そういうことがあなたのような学問を
なさる殿方のおっしゃることでしょうか! 草や木がなんでまた人間と
関係ございますの? これが取越苦労でなければ、それこそほんものの
お馬鹿さんですわ」
宝玉は嘆息していった。
「おまえたちにわかるわけもないやね。草木だけではない。およそ世の
中のありとあらゆる物は、みな情を具えていて、人間と同様に、知己を
得れば、大した霊験を顕わすものなのだ。ここに大きな例を持ち出して
言うならば、たとえば孔子廟の前の檜やお墓の前のめとぎ、諸葛祠の前
の柏(はく)、岳武穆(がくぶぼく)王のお墓の前の松、これらはみな
堂々正大、その人の正気に随って、千古不磨の物だ。世が乱れると枯れ
るが、世が治まると栄える。幾千百年にもなろうというのに枯れてまた
生き返ることを何度くりかえしたか知れない。これが応兆でなくて何だ
ろう! また小さな例を挙げようなら、たとえ楊太真の沈香亭の牡丹だ
とか、端正楼の相思樹だとか、応昭君の塚の草だとか、これまたいずれ
霊験あらたかなものではないか! だからこそこの海棠だって、その人
の死のうとする前兆として、半分枯れたのだよ」


『不思議な物語』 ブルワ=リットン
 バラケルスス(薔薇十字会の祖)が困難ではないと述べ、『文学的遺
品』の作者が信頼に足るとして引用した実験によって、説明させていた
だくことにします。花が萎れ、焼かれるとします。その花の生きている
ときの成分が何であったにせよ、それは私たちのわからないところへと
霧散し消滅してしまいます。見つけたり、集め直したりすることはでき
ません。しかし燃えがらから、化学の力によって、咲いたときのままの
その花のスペクトルを作ることはできるのです。人間についても同じと
言えるのではないでしょうか。人間の魂は、花の本質ないしは成分と同
じように、肉体から離れていきます。しかしながら私たちはそのスペク
トルを作り出すことはできるのです。そしてこの映像は迷信では亡くな
らないのです。それは生命のなくなった肉体の幻影にすぎないのです。


 『ティファニーで朝食を』 カポーティ
 「それからまた、例の星占いのほうもすっかりやめちゃったの、よく
あんなくだらない占星館へ出かけていって占ってもらうたんびに一ドル
ずつふんだくられたもんね。まったくうんざりさせられたもんよ。占い
の答えはいつも、善良な人間のみつねに善果をうるものなり、にきまっ
てるの。善良っていうより、正直ってことがあたしはもっと大事だと思
うのよ。ただし安っぽい正直じゃないわ、もしそれが今日の日を愉しむ
ために役立つなら、あたし、墓場荒しをすることだって、死人の目玉を
盗むことだって、やりかねないことだと思うの。だけど、あたしの言う
のはそうじゃなくって、なんじ、自身の胸に問うて式の正直のことなの
よ。卑怯者や猫かぶりやメソメソした性悪女やパンパンにだけはなりさ
がりたくないもんね。不正直な女になるくらいなら癌にでもかかったほ
うがましだわ。といってそれは何も信心があるからじゃないの。ただ、
そのほうが実際の役に立つからなのよ。癌ならまだ助かる道もあるけど
不正直な人間はきっと救われっこないからさ。」


 『超男性』 アルフレッド・ジャリ
 エレンがマルクイユの手を握った。
「あなたは手相をごらんになるのですか?」とマルクイユが、この月並
みなジェスチュアの意味を理解していないかのように、冷やかし半分に
質問した。
「いいえ、でもあなたの目を見ていますと・・・・もし輪廻を信じなけ
ればならないとすれば、あなたはいつか過去の時代に、とても年をとっ
て娼婦でいたのではなかったろうかという気がしてきます・・・」
「あらゆる娼婦は女王です」とマルクイユは、何の意味もないことを言
おうとして答えた。そして無感動なギャラントリーをもって、その唇で
エレンの手袋に軽く触れた。
手袋は、挑発されて怒った奇妙な小動物のように、ぴくりと震えた。こ
の手袋がかりに鳴き声をあげたとしても、アルクイユはさらに驚かなか
ったにちがいない。玄関の階段の下で、エレンは熱っぽい指で、一輪の
紅薔薇の茎を折り取った。
マルクイユが相変わらず真面目くさって質問した。
「花がお好きなんですね?」
マルクイユはエレンの気まぐれを真面目にとり、自分がうっかりしてい
て、それに気がつかなかったことを弁解するふりをした。リュランスの
城の薔薇は、彼のうかつさを十分に理由のあるものとしていた。ここの
薔薇は昔から有名で、その多くはこの世に二つとない変種だったのであ
る。マルクイユは折り畳みナイフの刃を起こして、花壇の方へ近づいた。
エレン嬢は頷いて感謝の意を表してから、
「無駄ですわ」と言った、「あたしは明日、出発するんですもの。長い
単調な汽車の旅のあいだ、薔薇の香と色が、すすけた客車の中を明るく
してくれたら、どんなによかろうかと思いますけれど、薔薇はすぐ萎れ
てしまいますわ。」
エレンが不快をおぼえるほどの素早さで、マルクイユはさっとナイフを
しまった。
「忘れていました。大競争があるんでしたっけ・・・そうそう・・・薔
薇が萎れてはいけない・・・・」
エレンは、マルクイユの態度がいささか露骨で礼儀に欠けていると思っ
たが、そう思っている自分の気持ちを認めたくなかったので、性急な動
作で自動車の座席に再び座ると、すぐエンジンを吹かせた。
どんな飾りも安楽設備もなく、ただ必要最小限に錆止め塗料を塗っただ
けの機械は、恥ずかしげもなく、まるで自慢でもしているように、その
推進器官を露出していた。機械は若い娘をさらって行く、淫猥な神話の
神のようであった。しかし若い娘は王冠のようなものを操作して、自分
の好き勝手に、この従順な怪物の頭を右に左に向けているのであった。
伝説のドラゴンもかならず王冠をかぶっているものである。
金属の獣は一匹の大きな黄金虫のように、そのはねをひろげてみたり、
地面を引っ掻いたり、小刻みに振動したり、その触角を動かしたりして
最後に去って行った。
薄緑色の服を来たエレンは、潮流に運ばれた巨大な珊瑚の幹に斜めに引
っかかった、小さな海草のようであった・・・・。
マルクイユは放心したように、エンジンの鋭い唸り声が徐々に弱まって
ゆくのを聞いていた。現実の音がもうずっと前に消えてしまっても、ま
だ彼は耳の奥に、その昔の思い出を聞いていた。
「薔薇が萎れてはいけない」と彼は考えていた。
ようやく、目がさめたように、彼は庭師を呼ぶと、庭の薔薇を残らず切
ることを彼に命じた。

 最初の男がイヴのそばで目をさまし、イヴが自分のすぐ隣にいるので、
これは自分の肋骨から出てきたのにちがいないと信じたように、彼は、絶
対のなかで眠りこんでいるその伴侶の近くで、心地よく眠気を催しはじめ
た。まだ人類に似た何かの雌が寝ていたとばかり思っていた場所に、愛に
よって花開いた最初の女を発見したという、きわめて自然な驚きのなかに
彼はいた。


 『黄色い薔薇』 ボルヘス
そのとき、啓示があった。
楽園のアダムも見たはずだが、
マリーノは薔薇に眼をとめ、
それは己の永遠のなかに生きており、
彼のことばのなかには存在しないこと、
薔薇を記述したり暗示したりすることは可能でも、
それを表現することはできないこと、
広間の隅に黄金の影を落としている誇らかな書物のやまは、
彼自身が夢みたような世界の鏡ではなく、
その世界に添えられた、
さらに一つの物でしかないことを悟ったのだった。
この啓示をマリーノが受けたのは死の直前である。
おそらく、
ホメーロスやダンテもそれを授かったにちがいない。


 『失楽園』 ミルトン
 彼女(イヴ)が席を離れたのは、二人の話に興味を感じなかったから
でもなく、かかる高邁な話を理解する力がなかったからでもなかった。
アダムが語り、自分独りが聞く、という楽しみのためにそれを取って置
きたかったからだ。
天使よりも自分の夫に話してもらいたかったし、尋ねるにしても夫に尋
ねたかった。アダムなら、話しの合間に楽しい余談を交え、どんな高遠
な問題も夫婦にのみ許された愛撫をまじえて解きほぐしてくれることを
彼女は知っていた。彼の唇から与えられる喜びは、単に語られる言葉だ
けではなかった。ああ、このような、愛情と相互の尊敬に結ばれた夫婦
が、果たしてこの世にあるであろうか!


 『ジョン・バロア』 マルタン・デュガール
ジャン 「十六の年齢には、恋愛から、馬鹿馬鹿しく神秘的な観念をつ
くりあげるものです! 自分の夢を非常に遠く、生活の可能性の圏外に
まで置くものですから、その夢を満たすような何一つ現実の中に見い出
すことが出来ないのです。そこで、どんな奴からでも、架空の対象をつ
くり上げてしまう! これは造作ないことなんです。つまり、誰でもい
いから手近の女を獲得するんですね・・・・。その女の真の性格はどう
であるかを詮索することなど努めて避ける! いや・・・・自分の空想
の密閉された範囲内に偶像として閉じ込めておくんです。《選ばれた女》
にふさわしいようなあらゆる特質でその女を飾る。それから、目隠しさ
れたままで、その前にひざまずく・・・・」(彼は笑う)
司祭  「哀れなるジャン、一体、あんたは私に何を話しているのか
ね?・・・・」
ジャン 「中毒は緩慢ですが、確実です・・・・。時は過ぎて行く、目
隠しは落ちない。ところが或る日、相当長いこと自分の恋情の権化にな
っていてくれたことを謝するために、本質的には知らないその小娘と平
気で笑いながら結婚する・・・・」


 『ロビンソン・クルーソー』 デフォー
 「ですが」と、ウイル・アトキンズがいった、「女たちにどんなふう
に宗教のことを教えろといわれるんですかね。われわれ自身何も知って
はいませんからね。それに、あの女たちに、神のことイエス・キリスト
のこと、天国と地獄のことなぞ話してごらんなさい、それこそこっちが
笑いものにされますよ。お前さんたちは自分で何を信じているのか、と
きかれるのがおちでしょうな。いやお前たちにいっていることは俺たち
も全部信じているんだ、善い人間は天国にゆくし、悪い奴は悪魔の所に
ゆくとか何とか、そういったことはみんな信じているといった日には、
それじゃ、そういったことをみんな信じているのに、お前さんみたいな
悪いことばかりしている人間はどこへゆくつもりなんだ、と訊ねてくる
にきまってますな。いや、実際われわれは悪い人間ですからね。そんな
わけで、あの女たちは宗教のことを聞いただけでもううんざりだ、とい
うにきまっています。偉そうに他人に宗教のことを教えるのには前もっ
て自分で宗教を多少とも信じていなければ駄目ですからな。」


 『イマージュ』 ジャン・ド・ベルグ
 「さあ今度は、そっと触れるのよ」と、クレールが命じた。
アンヌは例の花の半ば開きかかった花芯へ右手を伸ばす。それからきわ
めて優しく、花弁のまだ半分は閉じめくれ込んだ一等端のへりに指の先
端を滑らせる、薔薇色をした柔らかなその肉に触れなんばかりにして。
指の先は何度も何度も花芯の空洞になった部分の周辺をゆるやかにへめ
ぐった。さらに花弁の上部をそろえた五本の指の先端でそっと押しわけ
たり、またもとに戻したりした。
 こんなふうにして、二度三度繰り返しながら穴の入り口を押し広げ、
また閉じるがままにしていたと思うと、今度は一挙に中指をここに差し
込んでしまい、空洞の中に完全に挿入してしまった。そうしておいて再
び指を実にゆるやかに抜くのであるが・・・・それもすぐさま改めて中
指をもっと奥深くに浸すためであった。
 「あの娘、きれいな手をしてると思わない?」そうクレールはきいた。


 『血みどろ臓物ハイスクール』 キャシー・アッカー
 あたしたちは、まだ何の感情も持たずにいた。しかし裡では・・・・
セックスを超越するのは至難の技さ。
両脚開く。両膝立てる。はまぐりパカッ。片手をクリちゃんの上に置く。
左足立てる。右足水平、折曲げる。左手 右足の下から差し入れて、中
指、秘裂に奥までズッポリ。
両脚開いて腰浮かせ、中指薬指でVサイン。それでおまんこグイッと開
マン。


 『異物』 ジャン・ケロール
 ぼくはヴァイオリンをならっていることを彼女に打ち明けた。すると
彼女は言うのだ。
「あんたが芸術家?」
そして間の抜けた笑い方をした。ぼくは悲しい気持ちになったが、それ
はあながち自分のためばかりではなく、彼女のためでもあった。ぼくは
さらに自分は読書が大好きで、家の蔵書をひそかに持ち出していること
を告白した。
「きみも本を読むの?」
本を読むなどということは彼女にはとっぴで、おそらくは危険なものに
思われたであろう。彼女がぼくに対して抱いていた映像はたちまちにし
て消え、いま彼女のそばにいるのは主人夫婦と同じ奇癖を持った見知ら
ぬ男だった。
「そんなのあの夫婦にまかしときなさい・・・・それよりあたしをしっ
かり抱いてよ。」


 『武器よさらば』 ヘミングウエイ
「あの人、梅毒なの?」
「わからないね」
「あなたが梅毒でなくてよかったわ。あなたは、そんなふうな病気にか
かったことがあるの?」
「淋病をやったことがある」
「いやだわ。とても痛かった?」
「とても痛かったよ」
「わたしもかかればよかったわ」
「なにがいいもんか」
「ほんとよ。その病気にかかって、あなたと同じようになりたかったわ。
あなたの女たちといっしょにいたかったわ。そうすれば、あなたの前で、
その女たちをからかってやれるもの」
「そいつはおもしろい風景だ」
「あなたが淋病になるなんて、ちっともおもしろい風景じゃないわ」
「そうだね。それより、あの雪をごらんよ」
「あなたを見ている方がいいの。あなたは、どうして髪の毛をのばさな
いの?」


 『ノルウエイの森』 村上春樹
 夕方になると彼女は近所に買い物に行って、食事を作ってくれた。僕
らは台所のテーブルでビールを飲みながら食べ、青豆のごはんを食べた。
「沢山食べていっぱい精液作るのよ」と緑は言った。「そしたら私がや
さしく出してあげるから」
「ありがとう」


 『失われた時を求めて』 マルセル・プルースト
 彼女は、それでいて、浮薄ではなく、ひとりきりのときはたいへんな
読書家で、私と二人のときは、私に朗読してくれるのであった。彼女は
きわだって聡明な女になっていた。それでも勘違いしながら、こんなこ
とをいうのだった、「私ぞっとするわ、あなたがいらっしゃらなかった
ら、いつまでも私はまぬけな女でいただろうと考えると。いいえ、そう
なの、あなたは私の思いもかけなかった思想の世界をひらいてくださっ
たの、私がせめてこれだけになったらのは、あなたのおかげでしかない
わ。」


 『青春の門』 五木寛之
「おれは織江のこと好きだよ」
と、信介は考えながらつぶやいた。
「だが、おれは男だ。織江のことだけをかんがえて生きていくわけには
いかん」
「なぜ?」
「男と女はちがう」
「両方とも同じ人間じゃなかね」
「それはそうだけど」
「好き同士がいっしょになって、一生けんめい働いて、子供を産んで、
そして死ぬまで暮らしたらそれで良かろうが。人間て、そんなもんと
ちがうじゃろか」
「さあ」


 『マイウエイ』 ラジニーシ
 仏陀が自分の宮殿に戻ったとき
当然ながら彼の妻は非常に腹を立てていた。
十二年ものあいだ彼は顔を見せなかったのだ。
或る晩ふっと、彼女にひと言も声をかけずに姿を消して
しまったのだ。
彼女が眠っているあいだに、臆病者のように彼は逃げ出
して行ったのだ・・・・
仏陀の妻ヤショダラは、知っていたら彼の出奔も認めて
いたことだろう。
彼女は勇気ある女性だった。
もし仏陀が頼んだら彼女はゆるしていたことだろう。
それに関しては問題はまったくなかったはずだ。
しかし仏陀は頼みはしなかった。
彼は何か困るようなことが起こるのを恐れた。
彼女は泣いたりわめいたりしはじめるかもしれない・・・・
だが彼の恐れは彼女に原因するものではなかった。
彼自身の内部の奥深いどこかに恐怖があった。
彼は、泣いているヤショダラを置いて去ることが自分に
とってむつかしいことになるのを恐れたのだった。
 恐怖というのは常に自分自身の内にある。
知らせたら残酷なことになる。
彼はとても残酷にはなれなかった。
それなら妻が眠っているあいだにこっそり抜け出したほ
うがいい。
彼はこうして逃げた。

 女性エネルギーは愛す。
そして愛を通じて瞑想的な境地、サマディが花ひらく。
覚りがやって来る・・・・が
その根の中深くには愛があって
覚りはそこから生まれひらく花。
男性エネルギーにとっては覚り根の中にあるもの
サマディはその根の中深くにある。
瞑想はその根の中にある。
そしてそこから愛が花ひらく。
愛はあくまで一つの開花だ。


 『虚空の舟』 ラジニーシ
 どんな哲学よりひとつの笑いのほうが偉大だ。
〈生〉を笑うとき、その人は理解する
だから、ほんとうに知った人たちはみんな笑った
そして彼らの笑いは何世紀を経た後でさえ聞こえてくる
手に花をもった仏陀を見て
マハカシャップ(摩訶迦葉まかかしょう)は笑った
彼のその笑いは今でも聞くことができる
聞く耳ある者には彼の笑いが聞こえる
ちょうど河の流れのように
世紀を経ても絶えまなく、それは流れている

 日本の禅寺では、弟子たちはまだ師(マスター)に訊くという
「お教えてください。なぜ迦葉は笑ったのですか?」

 キリスト教徒たちは
イエスは一度も笑ったことがなかったと言う
これはまったくもってバカらしい!
イエスは笑ったにちがいない
十全(トータル)に笑って
彼の存在全体が笑いとなったにちがいない
が、弟子たちにはそれが聞こえなかった。それが真実だ

彼らは閉ざされたままでいたに相違なく
その彼らの深刻さが投影されていた
彼らには十字架の上のイエスを見ることはできた
というのもあなたがたは苦しみのなかに生きているから
苦しみしか見ることができない
たとえ彼らがイエスの笑いを聞いたとしても
彼らはそれを除外していたことだろう
それはあまりに彼らの生と矛盾している、合わない
彼は部外者のようになる

 樹に咲いている花は切り花とはちがう
そのなかには〈生〉が、〈生〉のかたちが流れている
樹から切って実験室に持っていって検査したら
それはまったくちがった花になる
見かけでだまされてはならないよ
そのなかに〈生〉はもはやない
その花の化学質を知るくらいはできるだろうが
それは説明ではない
詩人はちがったアプローチをする
解剖を通してではなく愛を通してのアプローチだ
花を樹から切り離すことを通してではなく
むしろ花と一体になって没入し
深い愛の内にその神秘性に参加することで近づく
詩人は参加する・・・・と彼は何かを知るようになる
が、それは説明ではない
詩は説明ではあり得ない
だが、そこには真理のきらめきがある
それはどんな科学よりも真実だ


 『愛の錬金術』 ラジニーシ
 ある人が芭蕉、禅師でもあった芭蕉に訊いた。
「あなたの講話に関して教えていただきたい。あなたは話つづけるが、
それでもなおあなたは言葉に反対したことを話される。あなたは話し
つづけるが、その話のなかであなたは言葉に反対し、話すことに反対
しておられる。これについて何か言っていただけませんか!」
芭蕉はこれに応えて何と言ったと思うね。彼は言った。
「人々は話すが、わたしは咲くだけだ!」


 『詩人と狂人達』 チェスタトン
 「花の話は陳腐だけれど、花そのものは陳腐じゃない」と頑固にい
い張るのは詩人だった。
「ひびのはいった壁に生えた花を謳ったテニソンは正しい。ところが、
たいていのひとは壁の花には眼もくれないで、壁紙の花模様しか見な
いのだ。抽象的に花を論じれば、花は味気ないものとなってしまうけ
れど、あるがままに単純に見れば、花はいつでも驚異の的だ。星が沈
むのも神の摂理によるとすれば、昇ってくる星には、それ以上の摂理
がこめられているのだ。ましてや、それが生きた星ともいうべき花と
なると、なおさらだ」


 『さよなら、アンディ』 ウルトラ・ヴァイオレット
 まったくの話し、アンディはほんとうに絵を描いたことすらなかっ
た。彼自身の言葉によれば、彼は絵を「する」のだった。一九六四年
のある日、わたしたちはファクトリーのこわれた長椅子に腰を下ろし
ていた。アンディは、いつものようにアイデアがないふりをしてみせ
た。
「ぼくは何をしたらいいんだろう?」と彼は聞いた。
「絵を描くのよ」
「どんなテーマで?」
 ロフトの西側の壁に沿ってシルクスクリーンが山のように積まれて
いた。わたしは大きなスクリーンに目をつけた。それは、およそ六
フィート×一二フィートほどの大きさで、濃いインクで、二輪の花が
簡略に並べて描かれていた。それぞれの花は直径がおよそ六フィート
で、一方がもう一つより大きく、わずかに触れあっている。わたした
ちは床の上にまっさらのカンヴァスをひろげて反りを伸ばし、その上
に花のステンシルを載せた。
「何色がいいかな?」と彼が聞いた。
「ヴァイオレットにして。だってわたしの名前だし、わたしも花の盛
りよ」
 缶切りを使って、彼はベンジャミン・ムーアのヴァイオレットの絵
の具の一ガロン缶を開けた。それに白色をひとつかみ加えると、ロー
ラーでスクリーンの花の一つの上に塗りつけた。
「もう一つの花はどうしよう?」と、彼はたずねる。
「オレンジはどう? ヴァイオレットの補色よ」
 彼は色調合されたオレンジの絵の具の缶を開けると、もう一方の花
の上にローラーを前後させて色を着けた。すべての作業はほんの数分
で方づいた。わたしたちはシルクスクリーンを取りはずして、カン
ヴァスの上に浮かびあがったあざやかな二輪の花を見つめた。
 この巨大なポップ・アート絵画を創造するという体験をした興奮で、
わたしは心臓がドキドキするのを感じた。この絵をもらえないだろう
か、とわたしは彼に頼んだ。けれでも、彼はわたしたちがいっしょに
やっている映画のギャラすら支払ってくれたことはないのだ。もちろ
ん、彼がただでくれるわけはない、でも安く譲ってくれるだろう。彼
のディーラーの価格以下で。わたしたちは二千ドルで手を打った。わ
たしはその場で千ドルの小切手を切り、残りの千ドルはあとからつご
をつけて支払った。わたしはいまでも二枚の領収書を持っている。ど
ちらにも彼の自筆でこう書いてある。「『二つの花』イザベルに売却、
一千ドル領収」
 一九七◯年にミネアポリスの画商ゴードン・ロックスレーが、この
『二つの花』に四万ドルという金額を申し出た。一九七五年には
O.K.ハリス画廊がアイヴァン・カープから十二万五千ドルという
金額がわたしに提示された。一九八◯年にはアンディが、あの絵に
二十万ドルの値がついていると教えてくれた。手書きの領収書がどれ
ほどの価値があるのかわたしは知らない。絵はわたしの家の居間にか
かっている。それは保険をかけておくだけで、たいへんな出費がかさ
むのである。
 いまになって絵をながめてみると、驚嘆すべきものがある。まず第
一にこの絵は美しい、とても美しい。けれでも、この絵はなんなのだ
ろう? 何を表わしているのか? 二輪の花はアンディが庭で摘んで
きたのでも、花瓶に活けてあったのを見たわけでもない。彼は、まず
その花を写真雑誌から見つけ出し、その写真を引き伸ばし、つぎに写
真をもとにシルクスクリーンを注文したのだ(のちに彼は写真家から
訴えられた)。もちろん彼は、スクリーンや印刷や引き伸ばしや彩色
などについては、コマーシャル・アーティストであった若いころにす
べてを学んでいた。なんのためらいもなく彼はこうしたテクニックを
取り入れ、流用したのだ。
 花の絵に近づいてじっくりとながめてみても、これはいったいなん
という花なのかと思ってしまう。きんぽうげ、コスモス、アネモネ、
ポピー、りんご、桃、梨の花? そのどれであってもいいのだった。
アンディは特定のものにはこだわらない。それは、小さな花が開きき
っているところなのか? 大輪の外来種なのか? 食用に適するのか、
有毒なのか? 花瓶に活けてあるのか、花屋にあるのか、それとも野
原に咲いているところなのか?
 均一な、濃淡のない色づかいが絵を非現実的なものに見せている。
現実の花には雌しべと雄しべのあたりに、この絵にはない微妙な陰影
がある。そこでわたしは、この花はほんものではないのだという結論
を下す。それはプラスチックで、大量生産ができ、永遠になくならな
い。こうしてわたしたちは、シュルレアリスム以後の現状となってい
るアンディの「プラスチックの必然性」という概念を理解する。その
中では、ニセものはほんものよりリアルなのだ。


 『ヴィンケルマン ギリシア芸術を語る』 ゲーテ
 あらゆる文字の世界から、いや、言語というものが生み出した最高
の成果である文学と修辞学からさえも、造形芸術に移ってゆくことは
困難である。いや、ほとんど不可能と言ってよい。両者の間には大変
な間隙があって、それをとびこえるには格別な資質を要するのである。


 『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』 A.アルトー
 事物の深い統一の感覚をもつことは、とりも直さずアナーキーの感
覚、事物を還元しそれを統一に導いてゆくためになされる努力の感覚
をもつことである。統一の感覚をもつ者は、事物の多様性の感覚、つ
まり、事物を還元し破壊するために通らなければならぬ微細な無数の
相の感覚をそなえている。


 『近代の芸術論』 フィードラー
 彼らの見解にしたがえば、芸術作品についての判断と理解は、われ
われが芸術作品のなかに見えるものと自然のなかに見るものとの照合
にもとづいており、芸術の形象と自然形象とが一致する程度が高いほ
ど、その芸術作品はそれだけ高い地位が与えられることになる。これ
に反してわれわれの見解にしたがえば、たんに見ることによって自然
についてなし得ないことを生み出す活動の端緒に立っているにすぎず、
したがって、芸術的過程が進めば進むほど、自然と芸術の比較対照は
ますます不可能になるのである。

 われわれは芸術的能力の最高度の達成を説明するにあたって、そこ
では当初眼のためのみ作られたかにみえる造形作品のなかで、感情の
刺激が最高度にうまくなしとげられているといったり、あるいは直観
的な表現のなかで、意識のさまざまな領域に属する多様な内容がいき
いきと表されているといったり、約言すれば、眼に示される形象のな
かに、感情と思考の全域にわたる要求がこのうえなく十分に満たされ
ている、といったりはしない。むしろわれわれは逆に、その作品のな
かでは造形的な手続きによって現前化される純粋な視覚表象の発展に
たいする関心が、それ以外の観点から作品を作ろうとする関心を凌駕
しているときに、まさにその点に、作品がきわめて高度な芸術性を達
成していることの理由を認め得るのである。芸術家の才能が本物であ
り、強靭ですらあるという証拠は、彼が造形活動に干渉する各種の価
値内容を顧みることなく、ひたすら視覚像の展開に向かって努力して
いるということによってのみ示すことができる。

 この曖昧性という価値を実現すべく、現代の芸術家は往々にして結
果のもつ無定形性、無秩序、偶然性、不確定性という理想に依拠する
がゆえに、〈形〉と〈開かれ〉との間に横たわる弁証法的関係を問題
にしようと努めてきた。つまり、一つの作品が最大限の曖昧性を実現
し、〈作品〉と呼ばれるものの範疇から逸脱しない程度に消費者側か
らの積極的介入に左右されうるのはいかなる範囲でなのか、それを明
確化しようとしてきたのである。ここで〈作品〉というのは、解釈の
変動と視点の移動とを許容し強調させる、確定的な構造特性を備えた
対象を意味する。

 古典芸術は言語体系の内部に独創的運動を導入し、その体系の基本
的規則は実質的に守っていたのに対し、現代芸術はそれ自体その新た
な法則を持つ新たな言語体系を(時には一つ一つの作品ごとに)提示
することにおいて、その独創性を実現する。


 『文学空間』 M.ブランショ
 ところで、作品とは何か? 可能性が能力となり、無限定なものの
みに充ちた空虚な法則であり形式(フォルム)である精神が、現実化
された形態(フォルム)の持つ確かさとなり、形態である物体、一個
の美しい物体であるあの美しい形態となるような、例外的瞬間である。
作品とは精神であり、精神とは、作品における、極度の無限定性から
極度の限定されたものへの移行だ。作品とは、精神における無限なも
のの実現にほかならないのだから、決して現実的ではなく、決して成
就されることはないのだが、これは、このような作品においてのみ現
実的な独自な移行なのだ、そしてこの移行は、作品のなかに、おのれ
を再認し限りなくおのれを働かせる機会を、くりかえし眼にするにす
ぎないのだ。かくして、われわれは、出発点に立ち戻る。

 リルケは、後期の或る詩作で(「後期詩集」鳥たちが・・・・)、
内面空間が、「事物を言いかえる」と語っている。彼は事物を、或る
言語から別の言語へ、よそよそしい外面的な言語から、全く内面的な
言語へ、その言語の内部にまで移行させているのであり、その時、こ
の内面的言語は、沈黙のうちに、沈黙を通して、ものの名前を告げ、
その名前をひとつの沈黙せる現実と化するのだ。「われわれを超え、
事物を言いかえる空間」は、だから、何ものにも勝った変容者であり、
言いかえ手だ。だが、このような指摘は、さらに次のことを予測させ
る、つまり、事物が眼に見えるものであることを止めてそれらの眼に
見えぬ内奥に留まるような、もうひとつの言いかえ手、もうひとつの
空間はないだろうか、ということだ。確かにある。われわれは、それ
に思いきって名前を与えることも出来る。この本質的な言いかえ手と
は詩人であり、その空間とは、詩作品という空間である。そこではも
はや何ひとつ現存するものはなく、そこではすべては、不法の唯中に
ありながら語っており、霊的な開かれた了解性、それも不動のもので
はなく永遠の運動の中心であるような了解性の中に立ち戻っているの
だ。
 眼に見えるものから見えぬものへのこのような変形が、われわれの
課題であり、あの転換の真理性だとしても、この変形が、「きわめて
瞬間的な」状態の漸次消失のうちに没し去ることなく遂行されるのが
見えるようなものを見えぬものへ変形することだ、分割し得ぬ空間の
中に、或る内奥、だがしかし、おのれの外に実在している内奥に、入
りこむことだ。語るとは、このような地点におのれを打立てることだ、
そこでは、言葉は、響きわたり聞きとられるために、空間を必要とし、
また、空間は、言葉の運動そのものと化しつつ、同時に、聞き取る働
きの深みと振動とに化するのだ。


 『存在と時間』 ハイデガー
 現存在が、かれのもっとも手近い、ありきたりの在り方、そのなか
でもさしあたり現存在が歴史的でもあるところの在り方、に関して、
その基礎構造を予備的に説明することは、しかしながら次のことを明
らかにするでしょう。すなわち現存在は、かれがそのなかにいるとこ
ろのかれの世界に転落し、そこから反映してみずからを解釈するとい
う傾向〔好み〕をもつばかりでなく、現存在はこれと一緒になって、
多少の差はあれ、はっきりと捉えられた伝統ばかりでなく、現存在は
これと一緒になって、多少の差はあれ、はっきりと捉えられた伝統の
なかに落ち込んでいる、ということです。この伝統は、現存在から独
自の導き方、問いかた、選び方を奪いさっています。このことはさら
に、現存在の最も自己的な存在に根ざしているところの了解やその形
成可能性、すなわち存在論的なものについても、当たっているのです。
 このような場合に支配的になる伝統は、さしあたりかつ大抵の場合、
それが「手渡す」ところのものに近づけなくするので、伝統はむしろ
それを隠してしまうのです。伝統は、受け継がれたものを自明さに引
き渡された多くのカテゴリーや概念が、一部は真にそこから汲みあげ
られたものを自明さに引き渡された多くのカテゴリーや概念が、一部
は真にそこから汲みあげられた根源的な「源泉」への通路をもふさぐ
のです。さらに伝統は、このような由来をも、おしなべて忘れさせて
しまうのです。さらにそれは、このような源に還ることの必然をひた
すら理解しようとすることをも、不必要だと斥けるのです。伝統が現
存在の歴史性をこのようにひろく根こそぎにしているから、現存在は、
わずかに哲学することの可能な類型、方向、立場の多様さに興味関心
をつないで、最もかけはなれたかつ最も縁遠い文化のうちに動き、そ
してこのような興味関心をもって、自分の根無し草であることを覆う
ように努めているのです。その結果、現存在は、すべての史学的興味
関心と言語学的に「事物に則した」解釈への熱心さにもかかわらず、
もっとも基本的な諸概念を、すなわち過去の生産的な収穫という意味
における、過去への積極的な還帰だけを可能にするという諸条件を、
もはや理解しないというということになるのです。


 『反復』 キルケゴール
 若い娘たちを観察し、彼らのとり交す会話を盗み聞きする機会をもっ
たことのある人なら、きっと次のようなありふれた言い方をよく耳にし
たにちがいない。「N.Nさんはいい人だけど、退屈だわ。ところが
F.Fさんったら、あの人とってもおもしろくって、いかすわよ。」か
わいい娘の口からこういう言葉を聞くたびに、わたしはいつも思うので
ある、「よくも恥ずかしくないものだ、若い娘がそんなことを口にする
なんて、なんて情け無いことだろう。」男がインテレサントなものに迷
い込んだとき、救い出してくれるものは娘のほかにないではないか。そ
れだのに、そういうことを口にするのは、罪を犯すことではないか。当
の男がインテレサントなことなどできない人間であるなら、その男に向
かってそれをせよと要求するのは、思いやりのないことであるし、ある
いはまた、男がインテレサントなことのできる人間であるなら、そした
ら・・・・、なぜかといえば、若い娘というものは、インテレサントな
ものを誘い出すことをしないようにと、つねに慎むべきものだからだ。
そういうことをする娘は、イデーから見て、いつも損をする。インテレ
サントなものはけっして反復されないからである、そういうことをしな
い娘が、つねに勝利を得るものである。(※インテレサント=おもしろ
い。興味をひく。好奇心をそそる。普通と違って目立つ。「倦怠」
「退屈」の相関概念。フリードリヒ・シュレーゲル 1772-1829
ドイツ・ロマン主義文学者、によって始めて用いられる。)

 「結局はおこらずにはすまないことを、そして起こってしまえば必要
なだけの力をあたえるであろうことを、これから先なお幾度も試してみ
たりなどしないために、いまそうすることにします。何よりこれを書い
ている者のことなど忘れ去ってください。ひとかどのことができるのに、
ひとりの娘を幸福にすることのできなかった男を許してください。
 絹の紐を送ることは、東の国では、それを受けとる者にとって、死刑
そ意味します。指輪を送ることは、ここでは、きっと、それを送る者に
とって、死刑となることでしょう」

 「わたしのレギーネ!
 瞬間はわたしたちに示してくれようとしません。よろしい、それでは
わたしたちは追憶することにしましょう。追憶はわたしの本領です。そ
してわたしの追憶は永久に新鮮です、それは河の流れのようにわたしの
生涯の荒れ野をうねりくねって流れ、囁いたり、しゃべったりし、そし
していつもいつも同じことをしゃべったり囁いたりし、愛をなだめて眠
らせ、私を招き誘って、幼時の漠然たる思い出からほとばしり出る追憶
の源までわたしを遡らせるのです。ですからわたしの追憶は、枯れしぼ
んではいても天候が変わると再び芳香を放つ緑の葉環と同じように(も
っとも追憶というものはすべて雨のときにいちばん甘くいちばん得も言
えぬ芳香を発するものではありますが)、互いに対立する気分が触れ合
うときに蘇るばかりではありません、いや、それは絶えず生きているの
です。けれでも、わたしは追憶という点ではまだ若いのです。老人たち
は時間的に自分からいちばん遠くにあることは追憶しますが、自分のご
く身近かにあることは追憶しないものです、この点でわたしが老人たち
とちがっているということからでも、わたしは若いということがあなた
にもわかっていただけるでしょう。わたしにとっては、理念と生活との
調和のとれた触れ合いは、ことごとく、またたくまに追憶に浄化(変貌)
してしまうのです。そして追憶は、とっくの昔に過ぎ去ったことをわた
しの近くに運んでくるかと思うと、今度は、過ぎ去ったばかりのことを
も遥か遠くへ押しやって、それを追憶の薄明のなかへ引き入れてしまう
のです。こういうわけで、瞬間がわたしたちに助力を拒んだのは今日の
ことなのに、わたしがこの手紙を書いているあいだにはまだその時が来
ていないにもかかわらず、わたしはこれら一切のことをとっくの昔に過
ぎ去ったころのように追憶するのです。それによってその一切のものは
苦痛の刺を失ってしまい、いつまでも哀愁の甘さをもちつづけるのです。
                        あなたのK.S」