title:機械論 ver.1.0j
木村応水 作
1997


 『春の雪(豊饒の海・第一部)』 三島由紀夫
「歴史に意志があるかね。歴史の擬人化はいつも危険だよ。俺が思うに
は、歴史には意志がなく、俺の意志とは又全く関係がない。だから何の
意志からも生れ出たわけではないそういう結果は、決して『成就』とは
言えないんだ。それが証拠に、歴史のみせかけの成就は、次の瞬間から
もう崩壊しはじめる。
 歴史はいつも崩壊する。又次の徒な結晶を準備するために。歴史の形
成と崩壊とは同じ意味をしか持たないかのようだ。
 俺にはそんなことはよくわかっている。わかっているけれど、俺は貴
様とはちがって、意志の人間であることをやめられないんだ。意志といっ
たって、それはあるいは俺の強ひられた性格の一部かもしれない。確と
したことは誰にも言えない。しかし人間の意志が、本質的に『歴史に関
わろうとする意志』だということはいえそうだ。俺はそれが『歴史に関
わる意志』だといっているのではない。意志が歴史に関わるということ
は、ほとんど不可能だし、ただ『関わろうとする』だけなんだ。それが
又、あらゆる意志にそなわる宿命なのだ。意志はもちろん、一切の宿命
をみとめようとはしないけれども。
 しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意志は挫折する。思うとお
りには行かないのが人間の常だ。そういうとき、西洋人はどう考えるか?
『俺の意志は意志であり、失敗は偶然だ』と考える。偶然とはあらゆる
因果律の排除であり、自由意志がみとめることのできる唯一の非合目的
性なのだ。
 だからね、西洋の意志哲学は『偶然』をみとめずしては成立たない。
偶然とは意志の最後の逃げ場所であり、賭けの勝敗であり、……これな
くしては西洋人は、意志の再々の挫折と失敗を説明することができない。
その偶然、その賭けこそが、西洋の神の本質なんだと俺は思うな。意志
哲学の最後の逃げ場が偶然としての神ならば、同時にそのような神だけ
が、人間の意志を鼓舞するようにできている。
 しかしもし、偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう。
どんな勝利やどんな失敗にも、偶然の働く余地が一切なかったと考えら
れるとしたらどうだろう。そうしたら、あらゆる自由意志の逃げ場はな
くなってしまう。偶然の存在しないところでは、意志は自分の体を支え
て立っている支柱をなくしてしまう。
 こんな場面を考えてみたらいい。
 そこは白昼の広場で、意志は一人で立っている。彼は自分一人の力で
立っているかのように装っているし、また自分自身そんな風に錯覚して
いる。日はふりそそぎ、木も草もなく、その巨大な広場に、彼が持って
いるのは彼自身の影だけだ。
 そのとき雲一つない空のどこかから轟くかのような声がする。
『偶然は死んだ。偶然というものはないのだ。意志よ、これからお前は
永久に自己弁護を失うだろう』
 その声をきくと同時に、意志の体が頽れはじめ融けはじめる。肉が腐
れて落ち、みるみる骨が露はになり、透明な漿液が流れ出して、その骨
さえ柔らかく融けはじめる。意志はしっかと両足で大地を踏みしめいて
いるけれど、そんな努力は何にもならないのだ。
 白光に充たされた空が、怖ろしい音を立てて裂け、必然の神がその裂
け目から顔をのぞけるのは、正にこの時なんだ。……
 俺はどうしてもそんな風に、必然の神の顔を、見るも恐ろしい、忌ま
わしいものにしか思い描くことができない。それはきっと俺の意志的性
格の弱味なんだ。しかし偶然が一つもないとすれば、意志も無意味にな
り、歴史は因果律の大きな隠見する鎖に生えた鉄さびにすぎなくなり、
歴史に関連するものは、ただ一つ、輝かしい、永遠不変の、美しい粒子
のような無意志の作用になり、人間存在の意味はそこにしかなくなる筈
だ。
 貴様がそれを知っている筈がない。貴様がそんな哲学を信じている筈
はない。おそらく貴様は自分の美貌と、変りやすい感情と、個性と、性
格というよりはむしろ無性格とを、ぼんやりと信じているだけなんだ。
そうだろう?」


 『維摩経』
 仏は大マウドガリヤーヤナに告げたもうた、「では汝が維摩のところ
へ行って見舞を言え。」
 大マウドガリヤーヤナは仏に申し上げた、「わたくしはかれのところ
へ行って見舞を言うことができません。なぜかと言いますと、思い起こ
しますが、わたくしが昔ヴアイシヤーリーの大都市に入り、街路でもろ
もろの資産者のために法を説いていました。
 そのとき維摩がやって来て、わたくしに申しました、『白衣をつけた
世俗の家主(かしゅ)のために法を説くには、いまあなたが説いている
ようなことではいけません。そもそも説法とは、法のごとくに説くので
なければなりません。もろもろの法には主となる衆生はありません。何
となれば法は衆生の垢(けがれ)を離れているが故に。法には我があり
ません。何となれば我の垢を離れているが故に。法には生命の主体があ
りません。なんとなれば生死を離れているが故に。法には人格的主体が
ない。何となればそれは過去世とも未来世とも断絶しているが故に。法
は常に寂然としている。もろもろの相を滅しているが故に。法は相を離
れている。何となれば認識されるものがないが故に。法には名字がない。
何となれば言語を断じているが故に。法は説かれることがない。何とな
れば思考作用を離れているが故に。法には形相がない。何となれば虚空
のごとくであるから。法には〈わがもの〉という関係はない。何となれ
ば〈わがもの〉という関係を離れているが故に。法には分別がない。何
となればもろもろの識別作用を離れているが故に。法は無比である。何
となれば対比さるべきものがないが故に。法は因に属しない。何となれ
ば諸法に入るが故に。法は真如に随う。何となればそのほかに随うよす
ががないから。法は真実の究極に安住している。何となればそれはもろ
もろの対立に動かされないから。法には動揺がない。何となれば六つの
対象領域に依拠していないから。法には去来がない。何となれば常に住
することがないが故に。法は空に順じ、無相に随い、無作(無願)に応
じている。法は好醜を離れ、法は増すことも損ぜられることもなく、法
には帰するところもない。法は眼、耳、鼻、舌、身、心を超えている。
法には高下がない。法は常住であって動じない。法は一切の分別の行を
離れている。法の特質はこのようなものである。どうして説くことがで
きようか。
 そもそも法を説く者には実は説くこともなく、示すこともない。その
法を聴く者にも聞くこともなく、得ることもない。たとえば、幻術使い
が幻の人のために法を説くようなものである。このような心がまえをし
て、法を説くべきである。衆生の能力・素質に利鈍があるのを了解して、
知見についてさわりとどこおることなく、大悲心をもって大乗を讃じ、
仏恩を報じようとして、三宝を断じないように念じて、そうして後に法
を説くべきである』と。維摩がこの法を説いたときに、八百人の家主は
無上のさとりをもとめる心をおこしました。ところがわたくしにはこの
弁がありません。だから、わたくしはかれのところに行って見舞を言う
ことができないのです。」


 『般若波羅蜜多心経』
 シヤーリープトラよ、この世において、物質現象は実体のないもの
(空)である。実体のないものこそが、物質現象として成立するのであ
る。実体のないことは、物質現象を離れてあるのではない。物質現象も
実体のないことと別にあるのではない。およそ物質現象であるものが、
そのまま実体のないことと別にあるのではない。およそ物質現象である
ものが、そのまま実体のないものなのである。実体のないことが、その
まま物質現象なのである。感覚・表象・意志作用・判断についても、こ
れと全く同じである。


 『正法眼蔵』 道元
 四祖「おまえはなんという姓か」
 少年「姓は持っているが、通常の姓ではありません」
 四祖「なんという姓か」
 少年「仏性です」
 四祖「おまえは無仏性だ」
 少年「仏性は空であるから、それで無とおっしゃるのですね」


 『諸経要集』
「先生! 精力ある人よ。あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れ
も良く、見た目も美しい、黄金の色あり、歯は極めて白い。
 けだし、生れの良い人の具える相好はすべて、偉人の相としてあなた
の身体のうちにあります。
 あなたは眼清らかで、顔もみめよく、身体は大きく、端正で、光輝あ
り、道の人の群れの中にあって、太陽のように輝きます。
 あなたは見るも美しい修行者で、その膚は黄金のようです。かくも容
色が優れているのに、どうして道の人たる必要がありましょう。
 あなたは転輪王となって、車兵の主となり、四方を征服し、インドの
支配者となるべきです。
 クシヤトリヤや地方の王どもはあなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータ
マよ。王の中の王として、人類の王として、統治をなさい。」
これに対して世尊は答えた。
「セーラよ。わたくしは王ではありますが、無上の法王です。法によっ
て輪をまわすのです。反転し得ない輪を。」


 『クムビ』 ゲンナジー・ゴール
 学校町《森のこだま》で「詩の夕べ」がもよおされたときのことを思
い出す。上級生たちが詩を朗読した。最後にロボツト詩人のアリクが登
場した。私の父の研究所のサイバネテクス研究室でつくられたもののひ
とつである。父はアリクを学校に寄贈したのであった。校長は、アリク
に、昔のアンデルセンの童話に出てくる中国の皇帝の人工ウグイスとい
うあだ名をたてまつった。校長はアリクを嫌って、そのために、この金
属の叙情詩人アリクは、学校の物置のなかで他のさまざまながらくたと
ともに埃をかぶっていた。
 そのアリクがどういうわけで引っ張り出されたのか、私は知らない。
ほかの生徒たちも誰も知らなかった。おそらく校長のしわざにちがいな
い。校長は、アリクを人びとの笑いものにすることによって、未来のサ
イバネテクス学者もいる全校生徒に対して、叙情詩は機械的な頭脳など
によってつくられるものではないこと、叙情詩は、森のウグイスの歌の
ようなものであり、ヨシキリのかんだかい泣き声のようなものであり、
山彦のようなものであり、不意の喜びや突然の不幸を予感する人間の心
の不安な鼓動そのものであることを証明したかったにちがいない。
 アリクはいかにもロボツトらしい足どりで舞台に姿をあらわした。ど
うやらこれをつくったサイバネテクス学者たちは顔かたちを美しくする
ことには余り気を使わなかったようにみえる。アリクは、昔のピエロの
ように表情のない顔をしていて、鼻は長くて変てこで、口は大きく、目
は、罠にかかった兎のように途方に暮れていた。その姿を見て、会場に
は笑いが巻きおこった。玩具の道化師だろうか? 人形の俳優だろうか?
このロボツトはどのようなばかげたことやくだらぬことを言って、私た
ちを笑わすのだろうか?
 ところが、次の瞬間、私たちははずかしくなった。アリクは詩を朗読
しはじめた。その声はつやがあって、心がこもっていて、朗読の内容と
調和していた。詩の言葉やその一節一節から、つつみかくしのない清ら
かな感情がにじみ出ていて、それが私たちに私たち自身を気づかせ、私
たちが日常生活のなかでは気づかずにいる私たちの心の奥底にある貴重
なものに目を向けさせた。
 私はアリクを見つめていた。アリクの顔は相変わらずでくのぼうのよ
うに表情がなかった。そして、その朗読している者の顔と朗読の内容と
のあいだの不一致のために、奇妙な二重の感情におそわれて、私は胸が
痛んだ。腑抜けのような顔と、心の奥底からあふれでる声と調子と思想
とが言うに言われぬ印象をかもし出していて、私はその後もその情景を
何回となく思い出した。
 私は感嘆と憐れみの入りまじった気持ちでアリクを眺めていた。私に
は、アリク自身が、かれの機械としての存在と、生命のない外皮のなか
にとじこめられている繊細で複雑な心との不調和にひどく悩んでいて、
かれの詩はかれ自身の心の状態の告白であるかのようにさえ思えた。
 やがてアリクの詩の朗読が終わった。
 私は校長を見た。校長の顔にはためらいといまいましさが浮かんでい
た。ロボツトの詩人が本当の叙情詩人であるなどとは夢にも思っていな
かったのである。校長は肩をすぼめて、人びとがペテン師のいんちきな
手品を非難するときにするようなゼスチユアをした。
 あとでわかったことだが、校長はアリクに対する態度を少しも変えず
に、「詩の夕べ」が終わると、アリクを屋根裏の埃っぽい一室へ運びこ
ませて、他のがらくたといっしょくたにしてしまた。
 アリクの詩とその朗読ぶりは、私だけでなく、全校生徒に強い感銘を
あたえた。小休憩のとき、ボリス・ザメントノフが私のところへやって
きて、感動をあらわにして言った。
「きみのお父さんは天才だね! ぼくが思っていた通りだった。今日、
校長と文学の先生に大恥をかかせたじゃないか。機械はせいぜいサリエ
ーリくらいにはなれるかもしれないが、モーツアルトには絶対なれない、
なんて大見栄をきっていたんだからね。ところがアリクはまさにモーツ
アルトじゃないか。なんという心の深さだろう!」
 数日が経ったが、私はずっとアリクのことを考えつづけていた。アリ
クの詩の文句はおぼえていなかったが、その調べはたえず私の心に浮か
びあがって、私を大いなる空想の世界へ、自然と心の奥深い世界へと連
れ去っていた。私は言いようもなくアリクにひかれ、もう一度アリクの
ピエロのような顔を、喜びや悲しみに満ちたすばらしい言葉を発音した
あの大きな口を見たくてたまらなかった。
 私は校長先生にたずねてみた。
「アリクはどこにいるのですか?」
「あるべき場所にある。つまり屋根裏だ」
「どうしてです?」
「あたりまえだ。あれは物だからね」
物? どうして物なのだろう? 果たして物が、アリクのように、あれ
ほどの深い心情と力で世界や自分のことを語れるものだろうか?


 『哲学原理』 デカルト
 人間が意志によって即ち自由に行為し、かようにして或る特別の意味
では、自分の行為の創造者であり、またこの行為によって賞賛に値する
ことこそ、人間における最高の完全性なのである。何となれば自動機械
は、運動を必然的に行うのであるから、その設計の目的であるあらゆる
運動を正確に行う点で、賞賛されるということはない、しかしその機械
の技術者は、必然的にではなく自由にこれを製作したのであるから、か
くも正確な機械を製作したことを賞賛されるのである。同じ理由で、我
々が真理を捉えるとき、我々は意志的にこれを行うのであるから、単に
捉えざるを得ない場合に比べて、真理を捉える点で遥かに多くを、我々
に帰しなければならないのである。


 『神よりの逃走』 ピカート
 万事が多種多様な可能性によって満たされていて、だから曖昧なこの
逃走の世界のなかには、真理は存在しない。しかし虚偽もない。という
のは、もしも虚偽があれば、それは一つの事物をあまりにも正確に示し、
固定するだろうし、そうなれば逃走は妨害されるだろうからである。逃
走のなかには虚偽もなければ真理もなく、また両者の混合もなく、ただ
可能性があるだけだ。そしてその可能性から、必要に応じて或る時には
真理に似た、また或る時には虚偽に似た何ものかが呼び出されるのであ
る。


 『エスケープ・ヴェロシティ』 マーク・デリー
 同時に、テクノ異教主義は、普遍的真実と客観的事実という伝統的概
念を破壊する科学自身の所業にも手を貸している。破壊を促したのは、
現代数学の基礎とも言うべきゲーデルの不完全性定理だ。これは数学者
のゴッドフリー・ハロルド・ハーディの定義によれば、「証明も反証も
永遠に不可能である数学的に意味のある命題が存在する‥‥なぜなら、
論理学の本質そのものによって解決不能なのだから」ハーディいわく、
ゲーデルの定理のもつ哲学的意味は「すさまじいもの」である。数学者
であり、サイバーパンク作家でもあるルーディ・ラッカーは、こうした
衝撃を楽しんでいる。「ゲーデルは、『真実』という根本的で論理的な
概念は合理的な定義などないことを示したのだ」と、ラッカーは断言す
る。さらに悪いことに、量子力学の原理である、ハイゼンベルクの不確
定性原理のおかげで、観察という行為そのものが観察対象の現象に影響
するという避け難い結論に至ってしまったのだ。これは客観的真実とい
う概念を根底からくつがえす原理である。「絶対普不変の概念の時代な
どというものが存在したとしたなら、それは今や確実にまた永遠に過去
のものとなってしまった」と数学者ジョン・L・キャスティは結論する。
「アインシュタインの研究は絶対空間と絶対時間という概念を永遠に葬
り去ったが、ハイゼンベルクは完全に正確な計測というものへの信頼を
叩きのめした。もちろんゲーデルは、絶対的な証明と真実という奇妙な
概念の息の根を止めた、というわけだ」。