『トランスフォーメーション第一宣言』のソースは、
『シュルレアリスム宣言』
アンドレ・ブルトン 著
巖谷国士 訳
岩波文庫


 人生への、人生のなかでもいちばん不確実な部分への、つまり、いう
までもなく現実的生活なるものへの信頼がこうじてゆくと、最後には、
その信頼は失われてしまう。人間というこの決定的な夢想家は、日に日
に自分の境遇への不満をつのらせ、これまでに使わざるをえなくなって
いた品々を、なんとかひとわたり検討してみる。そういう品々は、無頓
着さによって、それとも努力によって、いやほとんどいつもこの努力に
よって、人間の手にゆだねられてきたものだ。というのは、彼は働くこ
とに同意したからであり、すくなくとも、運を(運と称しているものを!)
賭けることをいとわなかったからである。そうなると、いまでは、おお
いにつつましくすることが人間の持ち分になる。これまでどんな女たち
をものにしてきたか、どんな出来事に足をつっこんできたかは、自分に
もわかっている。豊かだとか貧しいとかいうことはとるにたりない。こ
の点では、人間はまだ生まれたばかりの子どものままだし、また道義的
意識への同意については、そんなものなどなくても平気でいられるとい
うことを認めよう。いくらか明晰さをのこしているなら、このとき、人
間は自分の幼年時代をたよりにするしかない。調教師たちのおせっかい
のせいでどれほど台なしにされていたにもせよ、幼年時代は彼にとって、
やはり魅惑にみちたものに思えることにはかわりがない。そこでは、つ
らさとして知られているものがいっさい存在しないために、同時におく
られるいくつもの人生の見通しをゆるされる。人間はそんな幻想のなか
に根をおろす。もはやすべての事物の、そのときかぎりの、極端な安易
さしか認めようとはしない。毎朝、子どもたちは不安なしに出かける。
すべては手近にあるし、最悪の物質的条件でさえもすばらしい。

 自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべ
てである。思うにこの言葉こそ、古くからの人間の熱狂をいつまでも持
続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私のただひとつの正
当な渇望にこたえてくれる。私たちのうけついでいる多くの災厄にまじ
って、精神の最大の自由がいまなおのこされているということを、しか
と再認識しなければならない。それをむやみに悪用しないことが、私た
ちの役目である。想像力を隷従に追いこむことは、たとえ大まかに幸福
などとよばれているものがかかわっているばあいでも、自分の奥底に見
いだされる至高の正義のすべてから目をそらすことに等しい。想像力こ
そが、ありうることを私に教え、またそれさえあれば、おそろしい禁例
をすこしでもとりのぞくのにじゅうぶんだ。そして、まちがえる(これ
以上まちがえることができるかのようだが)心配もなしに、私が想像力
に身をゆだねるのに十分だ。想像力はどこからわるくなりはじめるのか、
精神の安全はどこで断たれるのか? 精神にとって、あやまちをおか
すことの可能性は、むしろ善の偶然性なのではあるまいか?

 事をはかるのは人間、事をなすのも人間である。自分がすっかり自分
のものになるかどうかは、つまり、日ごとにおそろしさをます自分の欲
望のむれを無政府状態に保てるかどうかは、ひとえに人間しだいである。
詩がそのことを人間に教える。詩は私たちの耐えているもろもろの悲惨
に対する完全な補償をうちにふくんでいる。詩はまた、なにかさほど本
質的ではない失意におそわれて、それをすこしでも悲劇的にとらえたい
などと思うときには、とりなし役をはたすこともできる。詩が金銭の終
焉を宣告し、地上のために、独力で天上のパンをちぎる日よ来れ! その
ときあちこちの公共広場ではさらに集会がひらかれ、あなたが参加をあ
てにしてなどいなかったさまざまな運動がおこなわれるだろう。ばかげ
た選別よ、危険予防の手すりよ、なにかにつけての潮時よ、さらばだ!
あとはただ詩を実践する労をとるがよい。すでにそれによって生きてい
る以上は、私たち自身が新証拠とみなしているものを優先させようとつ
とめることこそ、私たちの役目ではないだろうか?
 このような擁護と、あとにつづくことになる顕揚とのあいだに、多少
の不釣合があったところで、かまったことではない。詩的想像力の源泉
までさかのぼり、あまつさえ、そこに踏みとどまることが問題だったの
である。といっても、それをやりとげたと自称しているのではない。は
じめはなにごともうまく行きそうに見えないこの奥地に陣どることをの
ぞむからには、いわんや、誰かをそこにつれてゆこうとのぞむからには、
おおいに心をひきしめてかかる必要がある。しかも完全にそこに身をお
いているという確信はけっして得られるものではない。どうせ居心地の
わるい思いをしなければならないのなら、べつのところに立ちどまる気
になってもよい。ともかくもいま、一本の矢がこの国の方向を差し示し
ており、ほんとうの目標に行きつけるかどうかは、もはや旅人の忍耐ひ
とつにかかっている。

 はやく友人たちにもその恩恵を享受させたいとのぞんでいたこの新し
い純粋な表現方式を、シュルレアリスムの名で呼ぶことにした。思うに、
こんにちではもはやこの言葉をとらえなおす必要はないだろうし、この
言葉から私たちのうけとっている意味のほうが、アポリネールにおける
意味よりもあまねく優勢になっているはずである。いっそう適切なもの
として、あるいは、ジェラール・ド・ネルヴァルが『火の娘たち』の献
辞のなかでもちいているシュペルナテュラリスム、つまり超自然主義と
いう言葉をとりこんだほうがよかったかもしれない。じっさいネルヴァ
ルは、私たちが標榜している精神をおどろくほど身につけていたのに対
して、アポリネールのほうは逆に、シュルレアリスムという字面だけを
いまだに不完全なかたちで所有していたにすぎず、私たちをひきつける
ような理論的外観をあたえる力がないことを露呈してしまったように思
われる。以下に示すネルヴァルの二つの文章は、この点でいかにも興味
ぶかいものに見える。

 シュルレアリスムという言葉を、私たちが理解しているようなごく特
殊な意味において用いる権利に意義をとなえるむきがあるとしたら、そ
れはひどい悪意のしわざである。そもそも私たちよりも以前に、この言
葉が世にうけいれられたことがないのは明らかだからである。そこで、
いまこそきっぱりと、私はこの言葉を定義しておく。
 シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにも
とづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の
働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制も
なく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き
とり。
 百科辞典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされて
きたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無
欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決
定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってか
わることをめざす。絶対的シュルレアリスムを行為にあらわしてきたの
は、アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、クルヴェ
ル、デルテイユ、デスノス、エリュアール、ジェラール、ランブール、
マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴ
ィトラックの諸氏である。
 現在までのところ、以上の面々だけであって、十分なデータのないイ
ジドール・デュカスの例をのぞけば、まずまちがうようなことはないだ
ろう。そしてもちろん、それぞれの成果を表面的に見るだけならば、ダ
ンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人た
ちがシュルレアリストとみなされうるだろう。私は、背任の結果として
天才とよばれているものを格下げするために、これまでさまざまな試み
にふけってきたものだが、その間になにひとつとして、シュルレアリス
ム以外のプロセスに帰着しうるものを見いだせなかったのである。
 ヤングの「夜想」は、はじめからおわりまでシュルレアリスム的であ
るが、あいにく語り手は牧師である。おそらく悪い牧師ではあろうが、
とにかく牧師である。
 スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。
 サドはサディスムにおいてシュルレアリストである。
 シャトーブリヤンはエグゾティスムにおいてシュルレアリストであ。
 コンスタンは政治においてシュルレアリストである。
 ユゴーは馬鹿ではないときはシュルレアリストである。
 デボルド=ヴァルモールは愛においてシュルレアリストである。
 ベルトランは過去においてシュルレアリストである。
 ラップは死においてシュルレアリストである。
 ポーは冒険においてシュルレアリストである。
 ボードレールは道徳においてシュルレアリストである。
 ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである。
 マラルメは打ち明け話においてシュルレアリストである。
 ジャリはアプサント酒においてシュルレアリストである。
 ヌーヴォーは接吻においてシュルレアリストである。
 サン=ポル=ルーは象徴においてシュルレアリストである。
 ファルグは雰囲気においてシュルレアリストである。
 ヴァシェは私のなかでシュルレアリストである。
 ルヴェルディは自宅にいるときにシュルレアリストである。
 サン=ジョン・ペルスは距離をおいてシュルレアリストである。
 ルーセルは逸話においてシュルレアリストである。
 等々。
 私は強調しておくが、彼等をひとりのうちに、彼等が、ごく無邪気に!
固執していた先入観が多少とも見わけられるという点で、彼らはいつも
かわらずシュルレアリストだというわけではない。彼らがそんなものに
固執していたのは、死のまぎわにも嵐をこえて福音を説きつづける超現
実的な声を、シュルレアリスムの声を聞きいれることがなかったからで
あり、その不可思議な楽譜をオーケストラ化する役目だけをはたそうと
のぞんではいなかったからである。彼らは自尊心のつよすぎる楽器であ
り、だからこそ、いつも調和のとれた音を出すとはかぎらなかったので
ある。
 けれども私たちは、どんなろ過作業にも身をゆだねることなく、私た
ち自身を、作品のなかにあまたのこだまをとりいれる無響の集音器に、
しかも、それぞれのこだまのえがく意匠に心をうばわれたりはしない謙
虚な記録装置にしたててきたからには、おそらくいまも、彼らよりいっ
そう高貴な動機に奉仕しているはずだ。そういうわけで、私たちは、ひ
とが認めてくれている「才能」なるものを、正直につきかえしてしまう
のだ。このプラチナの物差しや、この鏡や、この扉や、あの空の才能に
ついて、おのぞみなら私に語っていただきたい。
 私たちには才能などない。

 ロベール・デスノスにきいてみたまえ、彼こそはおそらく私たちのう
ちでもシュルレアリスムの真実にもっとも近づいた人物であり、いまだ
刊行されていないいくつかの作品のなかで、またこれまでくわわってき
た度重なる実験を通して、シュルレアリスムに託していた私の希望をじ
ゅうぶんにうらづけてくれたうえに、さらに多くのものをそこに期待す
ることを強いている人物なのだ。こんにち、デスノスは、好きなように
シュルレアリスム語を話す。彼が自分の思考を口頭でたどってゆくとき
のあのおどろくべき迅速さは、私たちをよろこばせるあのすばらしい弁
舌とおなじだけ大きな価値がある。デスノスとしてはそれらを定着させ
ている暇などない以上、そうした弁舌は消えさってゆく。彼はいきなり
本をひらいて読みだすようにやすやすと心のうちを読みつづけ、人生の
風にとばされるそのページの一枚一枚を手もとにのこそうなどとはまっ
たく思わないのである。

 シュルレアリスムは、それに没頭しているひとびとに対して、好きな
ときにそれを放棄することをゆるさない。どう考えても、それは麻薬の
ように精神にはたらきかけるものにちがいない。麻薬と同様、それはあ
る種の欲求状態をつくりだすわけだし、おそるべき反逆へと人間をかり
たてることもできる。さらに、おのぞみとあれば、それはいかにも人工
的な楽園のひとつである。この楽園についていだかれている嗜好は、他
のさまざまな嗜好とおなじ資格で、ボードレールの批評の圏内に属して
いる。そんなわけで、シュルレアリスムの生みだしうるもろもろの神秘
的な効果や、もろもろの特殊な享楽についての分析、多くの側面から見
て、シュルレアリスムはひとつの新しい悪徳の様相をおびているわけだ
が、それは一部のひとびとの専有物になるべきものだとは思われず、あ
たかもハシッシュのように、あらゆる鋭敏なひとびとを満足させうる力
をもっている、そのような分析についても、この研究のなかにしかるべ
き位置をあたえないですますことはできない。
一、シュルレアリスム的なイメージについては、あの阿片によるイメー
ジとおなじようなことがいえる。つまり、もはや人間のほうからよびお
こされるものではなく、「自然発生的に、うむをいわさず人間にさしだ
されるものである。人間はこれを追いはらうことができない。なぜなら、
意志はもはや力をもたず、もはや諸機能を支配してはいないからである。」
あとはそのようなイメージをかつて「よびおこした」ことがあるかどう
か、それを知りさえすればよい。

 無数のタイプにわたるシュルレアリスム的イメージには分類がもとめ
られるだろうが、こんにちのところ私はそれをこころみるつもりはない。
特殊な類縁性に応じてそれぞれをまとめようとすれば、あまりにも遠大
な作業になってしまうだろう。ここではなによりも、それらに共通する
効能について考慮したい。私にとってもっとも強いイメージとは、もっ
とも高度な気ままさを示しているものであることを、隠さずにいおう。
それはつまり、実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメー
ジなのであって、たとえば、法外な量の外見的矛盾をふくんでいたり、
項のひとつが奇妙にうばわれていたり、センセーショナルな出現を予感
させながらもかすかにほぐれるけはいを見せていたり(コンパスの脚の
角度をふいにとじてしまったり)とるに足りない形式的な正当化をそれ
自身のなかからみちびいていたり、幻覚的な種類に属していたり、抽象
的なものに具体的なものの仮面をごく自然に貸しあたえていたり、ある
いはその逆であったり、ある種の基本的な物理的特性の否定をはらんで
いたり、笑いを爆発させるものであったりする。

 のぞもうとのぞむまいと、ここには、精神のいくつもの要求をみたし
てくれるものがある。これらすべてのイメージは、精神が成熟して、一
般にあたえられているつつましい悦びでは足りなくなり、それ以外のも
のも受け入れるということの証左だと思われる。これこそは、精神に託
される理想的な数の出来事を有利な方向へと転じるために、精神みずか
らが手中にしうる唯一の方法なのである。これらのイメージは、ふだん
の無駄づかいがどれほどのものか、その結果もたらされる不都合がどれ
ほどのものかを、精神に思い知らせてくれる。これらのイメージがけっ
きょく精神を困惑させたとしても、それは悪いことではない。なぜなら、
精神を困惑させるということは、精神をあやまちをおかさせることだか
らである。私が引きあいにだしているいくつかの文句は、ふんだんにそ
の材料を提供してくれる。それにしても、精神はそれらをゆっくりと味
わいながら、自分が正しい道にいるという確信をくみとるのである。精
神自身としては、屁理屈の罪など認めることはできないだろう。そのう
え、すべてを的確にとらえているという自負のあるかぎりは、精神にとっ
ておそれるべきものなどなにもない。
 シュルレアリスムにのめりこむ精神は、自分の幼年時代の最良の部分
を、昂揚とともにふたたび生きる。それはなにか精神にとって、いまし
も溺死しようとしているときに、自分の生涯のとらえがたい部分のすべ
てを、またたくまに思いおこしてしまうひとの確信のようなものである。
それではあまり乗り気になれないといわれもしよう。けれども私として
は、そんなことを言うやからを乗り気にさせようなどと思ってはいない。
幼年時代やその他あれこれの思い出からは、どこか買い占められていな
い感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくるが、私
はそれこそが世にもゆたかなものだと考えている。「真の人生」にいち
ばん近いものは、たぶん幼年時代である。幼年時代をすぎてしまうと、
人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使
えなくなる。ところが幼年時代には、偶然にたよらずに自分自身を効果
的に所有するということのために、すべてが一致協力していたのである。
シュルレアリスムのおかげで、そのような好機がふたたびおとずれるか
に思われる。それはあたかも、ひとが自分自身の救済あるいは破滅にむ
かって、いまも走りつづけているようなものだ。

 シュルレアリスムの諸手段はそのうえ、さらに拡大されることをもと
めるだろう。ある種の結合から好ましい唐突さを得るためならなんでも
いい。ピカソやブラックのはり紙は、もっとも洗練された部内の文学的
な展開のなかに、なにか常套句をもちこむのとおなじ価値がる。新聞か
ら切りぬいた見出しや、見出しの断片を、できるだけ無作為によせあつ
めて(おのぞみなら、構文法は守ろう)得られたものに、詩という題を
つけることだって許される。