title:お母さん ver.2.0j
木村応水 作
1997


 『陽気な埋葬』 デーリ・ティボル
 墓の後ろからひとりの老女が現われ、日差しのなかを突っきった。彼
女は地べたで泣きじゃくっている男を認めると足をとめた。彼女の疲れ
た赤い目が同情の視線を男に投げかけた。彼女は生涯、多くの人の泣く
のを見てきた、しかしいま彼女はひとことも声をかけずに通りすぎる気
にはなれなかった。
「まあまあ、そんなになさってはいけませんよ」彼女は言った。「私を
ごらんなさいな、ひとり息子の墓に通いつめて、もう四十年ですよ、こ
うして何年もわたしゃ辛い思いをしてきました。ほかに娘がひとりとか
わいい孫もひとりいることはいますが」
画家は背を向けて涙をふいた。年寄りは男の顔をのぞき込むように首を
かしげた。
「亡くなられたのは、あなたの奥さんですね」
画家は答えなかった。
「きっと、しっかりした、お美しいかたでしたろうに」年寄りは言った。
「主のお召があまりに早やすぎました」
画家は首をふった。
「奥さんじゃない?」年寄りは言った。「すると、お母さまで?」
「いいえ」画家は言った。「母はずっと以前に亡くなりました」
「ならお父さま」
「父もおなじです」
年寄りは途方にくれて墓石を目にこらした、文字は長い年月の雨に洗い
落とされていた。
「私にゃよく見えません」彼女は言った。「それに眼鏡を忘れて。気を
悪くしないでくださいよ」
「そんなことはありません、奥さん」画家は言った。「墓地で眼鏡がい
りますか?」
年寄りは足をひきずって墓に近寄ると、目を細めながら刻まれた文字の
跡をためつすがめつした。
「女も私のような年寄りになると、神さまに召されたほうがよほど幸せ
ですよ、ほんとうに。でも、あなたは、まだまだ若い、お子さんもおあ
りですね」
画家は答えなかった。
「神さまは一人の子をお取り上げになると、必ず別の子をくださるもの
ですよ」年寄りはそう言い、涙ぐんだ赤い目で、一心に消えかけた文字
を判読しようと首をのばしていた。
「私もうちのヨーシカが死んで十年たって娘ができましたよ」
「そうですか」画家は言った。
「きっと、むすこさんですね、ここに眠ってらっしゃるのは」
「いいえ」画家は言った。
「だとすると・・・・」
「いいえ、おばあさん、だれも私の家族がここに眠っているわけではあ
りません。こうして他人の墓に立って、私は人類の運命に暗然としたま
でです。私は、哀れな気違い芸術家ですよ」
年寄りはしばらく無言のまま立ちつくし、黒いサージュのショールを無
心に首のまわりに掛けなおした。
「人類のために何かすることはありませんよ、あなた」
やがて年寄りは言った。「人類は自分だけでやっていくものです。では
さようなら、私も家へ帰るとしましょう」


 『大地への祈り』 リビウ・レブリャーヌ
 家でみんな、ティトウほど賢い青年はこの辺にはいないと言うのだっ
た。たしかに小学校ではよくできた。父親の小学校を〈抜群〉の成績で
卒業した。アルマディアの中学校では少し苦労した。三年生の時、教師
たちが目の仇にすると泣き言をいうので、ヘルデーリャはビストリッツ
ア市のハンガリー人学校に転校させた。
「ハンガリー語を勉強しておくのも悪くない」ヘルデーリャは言った。
「今の世の中では支配者の言葉を話せないと、うだつがあがらないから
ね」(※第一次世界大戦前、ルーマニアはハンガリーに占領されていた。)
しかし、そこでも教師と折り合いが悪かったので、六学年が終わったあ
と、今度はドイツ人の学校へ通わせようということになった。
「ドイツ語を知っていれば世界じゅうに通用する」とヘルデーリャは言っ
た。
しかし、入学金が相当高くて、九月の新年度のときヘルデーリャは調達
できなかったので、あとの二年は自宅で勉強した。やがて試験の時期に
なって、私費学生の諸費用がまた上がったことがわかり、ヘルデーリャ
のお金が今度はもっと足りなくなったので、ティトウは、激論のあげく、
学校はもうやめることにした。そもそもあとの家族会議では、娘たちの
意見が通った。〈ティトウは市役所の書記になればいいわ〉
だが、この決定はヘルデーリャ夫人にとっては心外極まるものであった。
夫人の多年の夢は、ティトウが故郷のモノール村の司祭になることであっ
た。だって、この子は母親そっくりで、きれいな声をしているんですも
の。
ところで、ティトウが書記の講習を受けようとしているうちに、条件が
きびしくなった。高卒の資格が必要になったのである。そこで、ヘルデ
ーリャは、師範学校へ行って、自分のあとを継いでプリパス村の先生に
なったらどうかと言い出した。卒業の頃には、自分は定年になる。しか
し、ティトウは教職と聞いただけでぞっとする。先生になるくらいなら
日雇いのほうがまだましだよ・・・・。ティトウがあんまり強情に言い
張るので、だれも教職のことは口にしなくなった。それにしても、何も
せずにただ家にいるわけにはいくまい。とにかく一人前の人間なのだか
ら。のらくらしていてどうなる? 人の噂にもなるだろうし・・・・。
そこで、ヘルデーリャは、知り合いのスラーバ町の書記を説き伏せて、
ティトウを助手兼見習いとして雇い、賄いつきの下宿のほかに、いくら
かの小遣いをやることにしてもらった。ティトウは行って、三か月いた
が、これといった仕事もなく、退屈しきって、とうとう帰ってきてしまっ
た。無駄だよ、書記の仕事なんて気に入らないもの、しょうがないさ。
それに、たとえ気に入ったところで、卒業証書がなければ先の見込みが
ないじゃないか。大志を抱くこのぼくが、いつかは名をあげなくてはな
らないと思い、あげられると思っているこのぼくがだ・・・・。
 ティトウは詩や小説を熱心に読んでいた。とくに、学校へ行かなくなっ
てからは、手に入るものは全部読んだ。読むばかりでなく、自分でも書
きはじめた。始めは遊び半分だったが、そのうちいくらか本気になり、
とうとうそれに打ち込むようになった。そうして、ある日《ファミリア》
誌が三節の詩を載せてくれたとき、ひそかに決意を固めたのである。ぼ
くは詩人になろう。
妹たちの目に映るティトウは大物だった。両親のほうは、ティトウが詩
などで食べていけるのだろうかと、本心ではよく納得できなかったけれ
ども、それでも娘たちと同じ考えだった。
アルマディア町の紳士たち、とりわけ淑女たちは、印刷された詩の下に
しるされてあるプリパス村の教師の息子の名前を読んで仰天し、またう
らやんだ。たちまち、県下一円でティトウは詩人と呼ばれることになっ
た。かくて、ティトウは毎晩おそくまで読書と試作にふけっていった。
ランプを消し、闇の中で霊感の訪れを待ち、何か一行頭に浮かぶと、い
そいでランプをつけて、それを上に永遠化する・・・・。ヘルデーリャ
は、ときどき、油を使いすぎるとぶつぶつ言っているようだったが、
ミューズに魅せられたティトウは、そんな地上のたわごとには耳をかそ
うとしなかった。


 『自叙伝』 大杉栄
 「これからどうするつもりだ」
父はできるだけ優しく、しかし簡単にただこれだけのことを言った。僕
は一人できめていただけのことをはっきりと、しかしやはり簡単に答え
た。
「文学はちょっと困るな」
父は僕の言葉を聞き終わると、ちょっと顔をしかめて首を傾けた。
「文学ってなんですの」
母は心配そうに父の顔をのぞいた。
「それ、あの桑野の息子がやったようなものさ」
「あの、大学を卒業して、なんにもしないで遊んでいる、あの方?」
「うん、あれだ。あんなんじゃ困るからな」
「そうね」
僕はその桑野の息子というのがどんな男か知らなかったが、母もそう言
われれば、父に賛成するほかはないらしかった。
「とにかく東京へ出して勉強はさせてやるつもりだが、文学というのだ
けはもう一度考え直してみてくれ。お前も七、八人の兄弟の総領なんだ
からな、医科とか工科とかの将来の確実なものなら、大学へでもやって
やるがね。どうも文学じゃ困るな」
父はまた顔をしかめて首を傾けた。


 『東京のプリンスたち』 深沢七郎
 「秋山が学校やめた時、おふくろが泣いたそうだ。可愛想だナ、秋山
は」と言った。
「俺だったら死んじゃうナ、そんなにおふくろに泣かれて、よく秋山は
グレないナ、えらいなあ、秋山は」と常雄も言った。


 『ジャン・クリストフ』 ロマン・ロラン
 ルイザは子供の苦しんでいるのを見た。子供の心の中になにが起こっ
たのか、正確に知ることはできなかった。だが本能的に危険を感じた。
慰めてやるために、息子に近づいて、その悲しみの原因を知ろうと努め
た。だが、気の毒な母親は、息子と親しく語り合う習慣を失っていた。
数年のこのかた、彼は自分の考えは自分の胸一つにしまいこんでいた。
そして母親は生活の物質的な心配に気をとられて、息子の胸のうちをお
しはかる暇がなかった。で、今息子の力になってやろうと思っても、ど
うしていいかわからなかった。ただ、おろおろと、彼のまわりをうろつ
いているだけだった。なにか慰めとなるような言葉を捜し出したいと思っ
た。だが彼をいらいらさせることを恐れて、口を出しかねていた。用心
に用心を重ねながらも、彼女はあらゆる身ぶりによって、いや、ただ彼
の前にいるというだけのことで、彼をいらいらさせた。
というのは、彼女はあまり器用でなかったし、彼もあまり寛大でなかっ
たから。それでも、彼は母親を愛していた。二人は互いに愛し合ってい
た。しかし、ちょっとしたことで、慈しみ合っている人間もあいだをさ
かれるものだ! あまりにも強い口のききかた、不器用な身振り、目や
鼻をけいれんさせる罪のない癖、食べ方、歩き方、笑い方、なんとも分
析のしようのない肉体的な不快感・・・・そんなものはなんでもない、
と人々は考えている。だが、それがたいしたことなのである。それだけ
のことでしばしば母と子が、兄と弟が、ごく親しい友と友が永久に他人
となってしまうのだ。
そこでクリストフは、今自分が通っている危機に対するささえを、母親
に見い出すことができなかった。それに自分一人のことに没頭している
利己主義的な情熱にとっては、他人の愛情がどれだけ価値を持っている
だろう?


 『未成年』 ドストエフスキー
 私は誰よりも母を苦しめて、母にあたりちらした。私におそろしい食
欲が出て、食事を運んでくるのが遅いと文句ばかり言った(しかし食事
がおくれたことは一度もなかったのである)。母はどうして私の機嫌を
とったらいいのかわからなかった。
あるとき母はスープを運んできて、いつものように、スプーンで私に飲
ませはじめたことがあったが、私はその間中文句ばかりならべていた。
そのうちに不意に、文句を言っている自分が腹だたしくなった。『ぼく
が本当に愛しているのは、母一人だけかもしれないのに、その母をこん
なに苦しめたりして』。しかし私のむしゃくしゃはおさまらなかった。
そして私はかんしゃくを起こして不意に泣き出してしまった。ところが
母は、かわいそうに、私が嬉しくて泣き出したものと思って、私の上に
かがみこんで、接吻をしはじめた。私は心をひきしめて、どうにかがま
んしたが、その瞬間は心から母を憎んだ。しかし母を私はいつも愛して
いた、そのときも愛していたし、決して憎んだりはしなかった。ところ
がよくあることだが、愛していればいるほど、いじめてやりたくなるも
ので、そのときもそうだったのである。


 『女の一生』 モーパッサン
 母親としての利己的な心で愛するときには、子供がいつまでも自分の
子供がいつまでも自分の子供であってほしい、自分の子供だけであって
ほしいと思うが、情熱的な理性で愛するときには何か、世界に名だたる
人になってほしいという欲望を持つのだった。


 『針の眼』 マーガレット・ドラブル
 たとえば、学生のころ、休暇にアルバイトをすることを母は禁じた。
はるかに金持ちの友達の大多数がしていることであったにもかかわらず、
母にとってはその行為は敗北の匂いがあった。サイモンは自分が食べる
ための金を稼ぐことを禁じられた、たしかに母は、成功をおさめるにつ
れて、より容易に金を稼いではいたが。母は金のかかる職業を選べと主
張した。理由はそれがいちばん難しいからだった。


 『ツラトストラはこう言った』 ニーチェ
 あなたがたは、あなたがたの徳を愛している。母がその子を愛するよ
うに熱愛している。しかし、母がその愛に対して代償を求めようとした
ためしはない。


 『エミール』 ルソー
 よき母よ、とくに人々があなたに言おうとしている嘘に用心すること
だ。あなたの息子がいろいろなことを知っているとしたら、彼が知って
いる全てのことに疑いも持つことだ。もし不幸にもパリで教育されると
したら、そして富裕であるとしたら、彼はもうだめだ。パリに有能な芸
術家がいるかぎり、あなたの息子は彼等の才能を全て持つことになる。
しかし、彼等から遠ざかれば、もう彼は才能を持たなくなる。パリでは
富める者はなんでも知っている。貧しい者だけが無知なのだ。この首都
には芸術愛好家が、とくに芸術を愛好する女性がいっぱいいて、そうい
う人たちはギョーム氏がその色彩をつくりだしていたように彼等の作品
をつくっている。私はこの点で男性のうちに三人の尊敬すべき例外を知っ
ているし、例外はそのほかにもまだあるかもしれない。しかし、女性の
うちには私は一人として例外を知らないし、例外があるかどうかも疑わ
しい。一般的にいって、人は芸術の分野においても法曹界におけると同
じ様なやり方で名声を獲得する。人は法学博士になり法官になるのと同
じようなやり方で芸術家になり芸術家の判定者になる。


 『ゴリオ爺さん』 バルザック
 「じゃあ申し上げるは、ラスチニャックさん、世間というものを、そ
の値うち通りに扱うことですよ。出世なさりたいとおっしゃるなら、私
がお助けします。女の堕落がどんなに底深いものか、男のみじめな虚栄
心がどんなに幅広いものか、いずれあなたにもおわかりなりますよ。私
はこの世間という書物をよく読んだつもりでいましたが、それでもまだ、
私の知らないページがありました。今は私には何もかもわかりました。
あなたは冷静に計算なさればなさるほど、出世なさるのですよ。容赦な
く打撃を与えなさい、そうすれば人に恐れられます。男も女も宿駅ごと
に乗りつぶして捨ててゆく乗り継ぎ馬としてしか、受け入れてはいけま
せんの。そうすることによって、あなたは望みの絶頂に達することがで
きるでしょう。はっきり申し上げるけど、あなたに関心を抱く女性がい
ないかぎり、ここではあなたは物の数にも入らないのです。若くて、お
金持ちで、上品な、そうゆう女性があなたに必要なのです。でもあなた
が本当の愛情を感じたりしたら、それを宝物のように隠しておかなくて
はいけません。けっしてそれを感づかれないようにすることです。そう
でないと、あなたは破滅です。そのときはもう、あなたは死刑執行人で
はなくて、犠牲者になってしまうのですからね。まかり間違って恋をし
ても、あなたの秘密をしっかり守るのです! 心を打ち明けようとする
相手が、どんな人間かはっきり見定めたうえでなければ、その秘密を漏
らしてはいけませんわ。まだ今は存在していないそんな恋を前もって守
るために、世間に気を許されないように訓練するのです。」


 『結婚式の写真』 アニタ・ブルックナー
 彼女の態度には、自分は人とはちがうという自信にあふれた外国人特
有の行儀悪さが目につくが、これは母よりも父に愛されている証拠だ。
完全な母っ子だったソフカには、これが気になる。彼女は母が結婚の直
前にそっと教えてくれたことを忘れられない。行儀をよくして、上等な
下着を身につけ、上等な食事をするのですよ‥‥ところが、この騒々し
い娘は株だの投資だの外国人にかかる税だのの話しをし、財産はいろい
ろな国に分散しておく方が有利だなどと言う。こんなやりとりを聞いて
いれば、こういう問題となるとエヴィの方が男でフレデリックが女なの
ははっきりしている。エヴィは、ソフカの息子を彼女から奪うために着々
と手を打っているのだ。彼女にはそれだけの財産があるし、フレデリッ
クを自分好みの男に仕立てる力も持っている。


 『二人の女の物語』 アーノルド・ベネット
 シリルはもう三十三歳になっていた。相かわらず勤勉なたちで、相か
わらず自分の芸術に熱心に専念した。しかし名声も挙げず、成功もしな
かった。母親の仕送りで安楽に暮らして、自分は稼がなかった。自分の
計画もめったに話さず、希望は話したことがなかった。自分ではかち得
る力のない成功を静かにあざ笑うことをおぼえて、実際はデレッタント
になりおわっていた。かれは、勤勉で規則正しい生活をしていれば、そ
れだけで人間の生活は十分りっぱであると考えていた。コンスタンスは、
かれに世間をあっといわせてもらいたいと期待する習慣をやめていた。
かれはどっちかといえば態度が重々しくいやに几帳面で、周囲にたいし
てわざとらしい丁寧さがあって、慇懃で熱がなかった。まるで、自分に
わからないことがないのは、いつも明敏な人が察知するにまかせてある
のだ、ほんとのことがわかりさえすればいいのだといわぬばかりだった!
かれのユーモアは穏やかな形をとるようになていた。よくひとりでにや
にや笑った。これといって非の打ちどころがなかった。


 『純粋理性批判』 カント
 (例えば)、或る人が悪意ある嘘をつき、かかる虚言によって社会に
或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因
を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せ
られるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の交わっている不
良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生まれつき、軽ちょうや無分別などに
求めてみる。この場合に我々は彼のかかる行為の機縁となった原因を度
外視するものではない。このような事柄に関する手続きは、およそ与え
られた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合と全て同様である。
しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されて
いると思いはするものの、しかしそれにも拘わらず行為者自身を非難す
るのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生まれつきをもつと
か、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或いはまたそればかりでなく彼
の以前の状態などにあるのではない。それは我々が次のようなことを前
提しているからである。即ち、この行為者の以前の行状がどうあろうと、
それは度外視してよろしい、過去における条件の系列はなかったものと
思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまった
く条件にならないと考えてよい、要するに我々は、行為者がかかる行為
の結果の系列をまったく新たに、みずから始めるかのようにみなしてよ
い、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる
非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行
為の原因と見なしているのである。つまり、この行為の原因は、上に述
べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規
定し得たしまた、規定すべきであったと見なすのである。しかも我々は
理性の原因性を、単に感性的動機と攻め合うようなものとしてではなく、
それ自体完全なものと考えているのである。それだから感性的動機が理
性の原因性に賛成しないどころか、これにまったく反対するにしても、
やはり理性の原因性はかくあるべきであった、という見方をするのであ
る。こうしてこの行為者の行為は、彼の可想的性格に帰せられる。そし
て彼はいま嘘をついたその瞬間に、嘘つきの罪をまるまる引き受けるの
である。従ってまた理性は、行為に対する経験的条件がいくらあっても、
それ自身完全に自由であって、彼の行為は理性がこの場合に何もしなかっ
たということ即ち理性の不作為にすべて帰せられねばならない。


 『グイン・サーガ』 栗本 薫
 イシュトヴァーンはふしぎなほどすなおな、そしてたよりなさそうな、
年相応というよりも年よりもずっと幼くひびく声で、ささやくようにいっ
た。
「云ってくれ、おねがいだ、たのむ、少しでもおれを好いていてくれる
なら。おれのやってきたことは、まちがってないのか? おれはこれで
いいのか? このままこうして進んでいって、何かとほうもないまちが
いをしでかしているのに気づかずにいる、なんてことはないのか? こ
のさきにあるのはただ破局と破滅と地獄の業火だけ、なんてことはない
だろうか? おれはこのままアムネリスをかついでモンゴールの大公位
をめざしていっていいのか? 云ってくれ、これでいいといってくれ、
たのむ」
「これでいいとも」
ますますおどろきながら、即座にアリは云った。
「どうしてまちがうわけがある。おまえはいつだってこの世でいちばん、
野望にもえていて、その野望のためなら何を捧げようが、何をしようが、
誰を犠牲にしようがかえり見ようともせぬ若いヴァラキアの黒い狼だっ
た。炎のように激しく、氷のように酷薄で残忍で、おもても向けられぬ
ほど美しく燃えていた。おれが魅せられたのは、そのイシュトヴァーン
だ。おれが愛し、何をしてもいいと思い、おれのいのちをやりたいと思っ
たのは、そのイシュトヴァーンの激しさと美しさと野望ゆえだ。いまの
おまえこそがいちばん美しいんだ。イシュトヴァーン、ああ、イシュト
ヴァーン、俺がどれほどおまえに魅せられ、惚れこみ、愛しぬいている
か、おまえには想像もできないだろうよ。おまえからひきはなされるく
らいなら、おまえの手にかかって死んだ方がいい。しかし殺されても、
おれは怨念となってとりつくかわりに、霊魂になっておまえを守り、お
まえの野望を見守ってゆくだろう。イシュトヴァーン、これでいいんだ。
おまえとおまえの野望、おまえの運命、おまえの炎、それはこの世でい
ちばん美しい。ドールより、ルアーより、ヤヌスよりも!」
めったには口に出されぬ、その熱烈な真情と情熱の告白をつづけるうち
に、アリの心は自らおさえきれぬくらいたかぶってきた。アリはほとん
ど自分が何をしているのかもわからぬまま、イシュトヴァーンに這いよ
り、その足のさきにすがりつき、靴先に口づけ、頬をすりつけた。
イシュトヴァーンは気づきさえせぬようだった。
「怖いんだ」
中空を見つめたまま、ほとんどひとりごとのように彼はささやいた。


 『ペドロ・パラモ』 ファン・ルルフォ
 「おまえ、便所の中でなにをそんなに長居してるんだい?」
「なんでもないよ、母さん」
「そんなに長く入ってると蛇が出てきてかみつかれるわよ」
「わかったよ、母さん」