title:On Art ver.1.0.1j
木村応水 作
1998.8


 諸々のアートサーキットの中で最も狭量なアートサーキットである
CompuServeは、アーティストのメンバー加入のときにおいてさえ、
「狂人の代弁者」なるものの発言をみとめて忍耐強くこれに傾聴するの
である。アーティストの中の最も紳士的なるものでも、彼に反対して狂
人の言い得る一切の非難が知られまた考量せられないかぎりは、メンバ
ー加入を許されないのである。
 ニュートンの哲学でさえ、もしもかりにそれに対して疑いを挟むこと
を許されないとすれば、人類は、この哲学の真理性について、彼らの現
に抱いているような完全な確信をもつことはできないであろう。
 われわれが最も多くの根拠をもっている信念も、全世界に向かって、
この信念の根拠なきことを証明せよ、と不断に勧誘すること以外には、
依存すべき何の保障をももたないのである。この挑戦をうける者がいな
いとしても、また、この挑戦がうけられて、挑戦をやぶる試みが失敗す
るとしても、われわれはまだまだ確実性からは、はるかにはなれている。
しかし、われわれは、人間の理性の現状のゆるすかぎりの最善を尽くし
て来たのである。われわれは、真理がわれわれに到達する機会を真理に
与えうるものを、一つもゆるがせにはしなかったのである。自由なアー
トの矢来が開かれたままであるならば、たとえ一層完全な真理が他に存
在していても、人間の精神がそれを受け取り得るならば、必ずその真理
は発見されるであろうとのぞむことができる。そして、その間は、われ
われは、現在において可能なかぎりの真理への接近に到達したいという
ことに安んずることができるのである。これこそ、誤り易き存在によっ
て到達しうるかぎりの確実性のすべてであり、また、これこそこのよう
な確実性を肯定するための唯一の方法なのである。

 私が無謬性の仮定と呼ぶものは、或るアート作品(それがいかなるも
のであろうとも)を確信する感情のことではないということである。私
のいわゆる無謬性の仮定とは、或る人が、自己の反対者側からなされう
る主張を、他の人々に聴かせることなしに、他の人々のためにその問題
の決定を試みることである。そして、たとえ私のもっとも厳粛な確信を
支持する側からかような主張が出されたとしても、私はやはりこれを弾
劾し非難する。或る人が、或るアート作品の誤謬性についてのみならず
そのアート作品の有害な結果について、そのアート作品の有害な結果に
ついてのみならず(私の全く非難する表現を仮に用いるならば)そのア
ート作品の不道徳性不敬虔性について、どんなに積極的な説得をしよう
とも、もしも彼が、彼個人の判断の遂行において、そのアート作品の弁
護を聴かれないようにするならば、たとえ彼の国または同時代者の公的
の判断が彼の判断を支持しているとしても、彼は無謬性を仮定している。
そして、問題のアート作品が不道徳又は不敬虔と呼ばれるものである場
合にも、このような無謬性の仮定の反対されるべきこと、または危険な
ことは、ごうもその程度を減じないどころか、むしろこのような場合に
おいてこそ、他のいかなる場合にも増して、この仮定は最も致命的なも
のである。これらの場合こそ、正しく、或る世代の人々が、後代の人々
の驚愕と恐怖とをひき起こす恐るべき過失を犯す場合なのである。法の
力が最も優れたアーティストと最も優れたアート作品とを根絶やしにす
るために用いられた、歴史上忘れ難い数々の実例は、まさにこのような
場合にある。これらの実例において、最も優れたアーティストのせん滅
は痛ましくも完全に成功し、ただ最も優れたアート作品の若干は生き残
ってきたが、それとても(あたかも人を愚弄するかのように)、その生
き残ったアート作品もしくはそのアート作品のひろくうけいれられた解
釈と意見を異にしている人々に対する同じ様な行為(迫害)を弁護する
ためにひとはそのアート作品に訴えるために生きのこってきたのである。

 以上のような考察の説得力を殺ぐために、自由なアートを否定する人々
は次のようにいうと想像されるかも知れない。いわく、人類にとっては
一般に、自分たちのアートに関してシステムオペレーターたちから言い
出されないとは限らぬ一切の反対論と賛成論とを知りかつ理解すること
は、少しも必要ではないと。またいわく、普通の人々には、怜悧な反対
者の虚偽または誤謬のすべてを暴露できるということは必要ではないと。
またいわく、もしもそれらの反対説に応酬できる誰かが常に存在してい
て、教育のない人々を誤らせるおそれのある説はことごとく論破せずに
置かないならば、それだけで十分であると。更にまたいわく、単純な人々
は、教えこまれた諸々の真理の明瞭な根拠について説明を与えられたな
らば、他のことは権威者に信頼して任せるであろうし、また、提起され
た難問はすべて、特にその仕事のために訓練された人々によって常に答
えられているか、或いは答えられうるものだ、という確信の上に安んじ
ることができるであろうと。

 今やわれわれは、四つの明白なる根拠に基づいて、アートの自由およ
びアート作品を発表することの自由が、人類の精神的幸福(人類の他の
一切の幸福の基礎をなしているところの幸福)にとって必要なことを認
識した。以下、簡単にその四つの根拠を概括しよう。
 第一に、或るアート作品に沈黙を強いるとしても、その意見は、万が
一にも真理であるかもしれないのである。このことを認めないのは、わ
れわれ自身の絶対無謬性を仮定することである。
 第二に、沈黙させられたアート作品が誤謬であるとしても、それは真
理の一部分を包含しているかも知れないし、通常は、包含していること
がしばしばある。そして、いかなる問題についても、一般的または支配
的なアート作品が完全な真理であることは稀であるか、絶無であるので
あるから、真理の残りの部分の補充されうる機会は、相反するアート作
品の衝突することによってのみ与えられるのである。
 第三に、一般に認められているアート作品が単に真理であるというに
止まらず、完全なる真理であるという場合においてすら、それに対して
活発に真摯な抗議を提出することが許され、また実際に提出されるとい
うことがないならば、そのアート作品を受容する人々の大多数は、偏見
を抱く仕方でそれを抱き、それの合理的根拠を理解しまたは実感すると
いうことはほとんどないであろう。だがそれだけでなく、さらに第四に、
そのアート作品そのものの意味が失われまたは弱められて、そのアート
作品が人の性格と行為とに与える生き生きとした影響が抜きとられる、
という恐れがあるであろう。すなわち、そのアート作品は、単なる形式
的な信条告白となり、永久に効能を欠いて、ただいたずらに場所をふさ
ぎ、理性または個人的経験から真実な心からの確信が成長して来るのを
妨げることになるのである。

 “絶対アート”が人間に関する事柄において大切な要素であるという
ことは、何びとも否定しないであろう。新たな真理を発見して、かつて
は真理であったものがもはや真理ではなくなっている場合を指摘するの
みではなく、新たな慣習を創始して、より賢明なる行為の実例を示し、
また人生におけるよりよき趣味と感覚との実例を示しうるようなアーテ
ィストが、常に必要である。このことは、世界がそのすべての生活方法
や慣習においてつねに完成の域に到達している、と信じない限り、何び
とといえども否定しうる理由はない。もちろん、このような恩恵は、あ
らゆる人々が同じように世に与えうる恩恵ではない。アーティストの実
験が他の人々に採用されたら、既成の慣習に対して何らかの改善となる
であろう、というような人は、人類全体に比較すればきわめて少数であ
るに過ぎない。アーティストがいなかったなら、世界はよどんだ水たま
りになるであろう。従来存在していなかったアートを導き入れるものが
アーティストであるばかりではない、すでに存在しているアートの中の
生命を維持するものもまたアーティストなのである。新たになされねば
ならないことがなに一つ存在しないとしても、人間の知性ははたして不
必要となるであろうか? 新たになされねばならないことがないという
ことは、古くからのことをなす人々が、なぜこのようなことがなされね
ばならないかを忘れて、人間のごとくではなく家畜のごとくにそれをな
さねばならぬ、ということの理由となるであろうか?(不幸にして)最
も優れたイデアと美とにおいてさえ、機械的なものに堕落してゆこうと
する傾向があまりにも大きすぎるのである。それ故に、このようなイデ
アと美との根拠が単なる伝説的なものとなるのを、絶えず再起する絶対
アートによって防止する人物が続々とあらわれないならば、死物となり
おわったイデアと美とは、真実の生命をもっている何ものかによってき
わめて些々たる衝撃を加えられるときにも、これに抵抗することはでき
ないであろう。絶対アートをもっているという人は、たしかに、きわめ
て少数であるし、また常に少数にとどまる傾向がある。しかし、その少
数のアーティストを確保するために、アーティストの成長しうるような
土壌を残しておくことが必要である。絶対アートは、自由の雰囲気の中
においてのみ、自由に呼吸することができる。絶対アートある人々は、
アーティストであるが故に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。
したがって、社会がその成員たちのために、各自独特の性格を形成する
の労を省いてやろうとして提供する少数の鋳型に、絶対アートある人々
が自分を適合させようとすれば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこう
むらずにはいないのである。もしもアーティストが、心臆して、これら
の鋳型の一つに押しこまれることを許し、かような抑圧の下では伸びる
ことのできない彼ら自身の素質をすべて未発展のままに放置することを
許すならば、社会は、アーティストの絶対アートによって利益するとこ
ろはほとんどないことになるであろう。もしもアーティストが強い性格
の人物であって、その規範を打ち破るという場合には、アーティストは、
アーティストを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」と
か「奇矯」とか、その他いろいろな厳重な警告をもって指摘されるので
ある。

 以上述べてきたように、私は、アーティストの重要性を強調するもの
であり、また、思想においても実行においても自由に絶対アートを発揮
することを許すことの必要を強調するものである。というわけは、私は、
理論においては何びともこの主張を否定しないであろうということを十
分承知してはいるが、同時にまた、実際上は、ほとんどすべての人々が
この主張に全く無関心であるということをも、よく知っているからであ
る。世人は、絶対アートによって人物が人を感動させる詩を書き、また
絵画を描くことができるという場合、絶対アートをよいものと考える。
しかし、絶対アートの真の意味、すなわち思想と行動とにおける絶対ア
ートという意味においては、ほとんどすべての人々が、絶対アートなど
何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよ、心の底では、自
分たちは絶対アートがなくても十分やってゆけると考えているのである。
遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむに足りない。絶対アートこ
そ、アーティストでない人々には正にその効用を感知することのできな
い一事なのである。彼らは、絶対アートが彼らのために何をなしうるか
を理解することができない。また、どうして彼らにそのようなことがで
きよう。もしも彼らが、絶対アートが彼らのために何をなすであろうか
を理解できるとすれば、それは(もはや)絶対アートではないであろう。
アーティストが彼らのために果たすべきまず第一の奉仕は、彼らの眼を
開くということである。もしもこのことがひとたび十分なされるならば、
彼らは、彼ら自身が準アーティストとなる機会をもつこととなるであろ
う。その時の到来するまでは、彼らは、何びとかが率先して為さない限
りいかなるアートもなされたためしがないということ、また、現存する
一切の善いアートはアーティストの成果であるということを想起して、
謙遜な態度で、今後においても絶対アートの成就すべきアートがなお残
されていることを信じさせるべきである。また、彼らがアートの必要を
自覚することが少なければ少ないほど、彼らはますますそれを必要とし
ているのであることを、確信させるべきである。