『On Art』のソースは、
『自由論』
J.S.ミル 著
塩尻公明・木村健康 訳
岩波文庫

 諸々の教会の中で最も狭量な教会であるローマ・カトリック教会は、
聖者の聖列加入のときにおいてさえ、「悪魔の代弁者」なるものの発言
をみとめて忍耐強くこれに傾聴するのである。人間の中の最も聖なるも
のでも、彼に反対して悪魔の言い得る一切の非難が知られまた考量せら
れないかぎりは、聖列加入という死後の栄誉を許されないのである。ニ
ュートンの哲学でさえ、もしもかりにそれに対して疑いを挟むことを許
されないとすれば、人類は、この哲学の真理性について、彼らの現に抱
いているような完全な確信をもつことはできないであろう。われわれが
最も多くの根拠をもっている信念も、全世界に向かって、この信念の根
拠なきことを証明せよ、と不断に勧誘すること以外には、依存すべき何
の保障をももたないのである。この挑戦をうける者がいないとしても、
また、この挑戦がうけられて、挑戦をやぶる試みが失敗するとしても、
われわれはまだまだ確実性からは、はるかにはなれている。しかし、わ
れわれは、人間の理性の現状のゆるすかぎりの最善を尽くして来たので
ある。われわれは、真理がわれわれに到達する機会を真理に与えうるも
のを、一つもゆるがせにはしなかったのである。自由な論議の矢来が開
かれたままであるならば、たとえ一層完全な真理が他に存在していても、
人間の精神がそれを受け取り得るならば、必ずその真理は発見されるで
あろうとのぞむことができる。そして、その間は、われわれは、現在に
おいて可能なかぎりの真理への接近に到達したいということに安んずる
ことができるのである。これこそ、誤り易き存在によって到達しうるか
ぎりの確実性のすべてであり、また、これこそこのような確実性を肯定
するための唯一の方法なのである。

 私が無謬性の仮定と呼ぶものは、或る教説(それがいかなるものであ
ろうとも)を確信する感情のことではないということである。私のいわ
ゆる無謬性の仮定とは、或る人が、自己の反対者側からなされうる主張
を、他の人々に聴かせることなしに、他の人々のためにその問題の決定
を試みることである。そして、たとえ私のもっとも厳粛な確信を支持す
る側からかような主張が出されたとしても、私はやはりこれを弾劾し非
難する。或る人が、或る意見の誤謬性についてのみならずその意見の有
害な結果について、その意見の有害な結果についてのみならず(私の全
く非難する表現を仮に用いるならば)その意見の不道徳性不敬虔性につ
いて、どんなに積極的な説得をしようとも、もしも彼が、彼個人の判断
の遂行において、その意見の弁護を聴かれないようにするならば、たと
え彼の国または同時代者の公的の判断が彼の判断を支持しているとして
も、彼は無謬性を仮定している。そして、問題の意見が不道徳又は不敬
虔と呼ばれるものである場合にも、このような無謬性の仮定の反対され
るべきこと、または危険なことは、ごうもその程度を減じないどころか、
むしろこのような場合においてこそ、他のいかなる場合にも増して、こ
の仮定は最も致命的なものである。これらの場合こそ、正しく、或る世
代の人々が、後代の人々の驚愕と恐怖とをひき起こす・恐るべき過失を
犯す場合なのである。法の力が最も善い人々と最も高貴な教説とを根絶
やしにするために用いられた、歴史上忘れ難い数々の実例は、まさにこ
のような場合にある。これらの実例において、最も善い人々のせん滅は
痛ましくも完全に成功し、ただ最も高貴な教説の若干は生き残ってきた
が、それとても(あたかも人を愚弄するかのように)、その生き残った
教説もしくはその教説のひろくうけいれられた解釈と意見を異にしてい
る人々に対する同じ様な行為(迫害)を弁護するためにひとはその教説
に訴えるために生きのこってきたのである。

 右のような考察の説得力を殺ぐために、自由な議論を否定する人々は
次のようにいうと想像されるかも知れない。いわく、人類にとっては一
般に、自分たちの意見に関して哲学者や神学者たちから言い出されない
とは限らぬ一切の反対論と賛成論とを知りかつ理解することは、少しも
必要ではないと。またいわく、普通の人々には、怜悧な反対者の虚偽ま
たは誤謬のすべてを暴露できるということは必要ではないと。またいわ
く、もしもそれらの反対説に応酬できる誰かが常に存在していて、教育
のない人々を誤らせるおそれのある説はことごとく論破せずに置かない
ならば、それだけで十分であると。更にまたいわく、単純な人々は、教
えこまれた諸々の真理の明瞭な根拠について説明を与えられたならば、
他のことは権威者に信頼して任せるであろうし、また、提起された難問
はすべて、特にその仕事のために訓練された人々によって常に答えられ
ているか、或いは答えられうるものだ、という確信の上に安んじること
ができるであろうと。

 今やわれわれは、四つの明白なる根拠に基づいて、意見の自由および
意見を発表することの自由が、人類の精神的幸福(人類の他の一切の幸
福の基礎をなしているところの幸福)にとって必要なことを認識した。
以下、簡単にその四つの根拠を概括しよう。
 第一に、或る意見に沈黙を強いるとしても、その意見は、万が一にも
真理であるかもしれないのである。このことを認めないのは、われわれ
自身の絶対無謬性を仮定することである。
 第二に、沈黙させられた意見が誤謬であるとしても、それは真理の一
部分を包含しているかも知れないし、通常は、包含していることがしば
しばある。そして、いかなる問題についても、一般的または支配的な意
見が完全な真理であることは稀であるか、絶無であるのであるから、真
理の残りの部分の補充されうる機会は、相反する意見の衝突することに
よってのみ与えられるのである。
 第三に、一般に認められている意見が単に真理であるというに止まら
ず、完全なる真理であるという場合においてすら、それに対して活発に
真摯な抗議を提出することが許され、また実際に提出されるということ
がないならば、その意見を受容する人々の大多数は、偏見を抱く仕方で
それを抱き、それの合理的根拠を理解しまたは実感するということはほ
とんどないであろう。だがそれだけでなく、さらに第四に、その教説そ
のものの意味が失われまたは弱められて、その意見が人の性格と行為と
に与える生き生きとした影響が抜きとられる、という恐れがあるであろ
う。すなわち、その教説は、単なる形式的な信条告白となり、永久に効
能を欠いて、ただいたずらに場所をふさぎ、理性または個人的経験から
真実な心からの確信が成長して来るのを妨げることになるのである。

 独創性が人間に関する事柄において大切な要素であるということは、
何びとも否定しないであろう。新たな真理を発見して、かつては真理で
あったものがもはや真理ではなくなっている場合を指摘するのみではな
く、新たな慣習を創始して、より賢明なる行為の実例を示し、また人生
におけるよりよき趣味と感覚との実例を示しうるような人物が、常に必
要である。このことは、世界がそのすべての生活方法や慣習においてつ
ねに完成の域に到達している、と信じない限り、何びとといえども否定
しうる理由はない。もちろん、このような恩恵は、あらゆる人々が同じ
ように世に与えうる恩恵ではない。その人の実験が他の人々に採用され
たら、既成の慣習に対して何らかの改善となるであろう、というような
人は、人類全体に比較すればきわめて少数であるに過ぎない。しかし、
これらの少数者こそ他の塩なのである。彼らがいなかったなら、人生は
よどんだ水たまりになるであろう。従来存在していなかった善きものを
導き入れるものが彼らであるばかりではない、すでに存在している善き
ものの中の生命を維持するものもまた彼らなのである。新たになされね
ばならないことがなに一つ存在しないとしても、人間の知性ははたして
不必要となるであろうか? 新たになされねばならないことがないとい
うことは、古くからのことをなす人々が、なぜこのようなことがなされ
ねばならないかを忘れて、人間のごとくではなく家畜のごとくにそれを
なさねばならぬ、ということの理由となるであろうか?(不幸にして)
最も優れた信仰と慣習とにおいてさえ、機械的なものに堕落してゆこう
とする傾向があまりにも大きすぎるのである。それ故に、このような信
仰と慣習との根拠が単なる伝説的なものとなるのを、絶えず再起する独
創力によって防止する人物が続々とあらわれないならば、死物となりお
わった信仰と慣習とは、真実の生命をもっている何ものかによってきわ
めて些々たる衝撃を加えられるときにも、これに抵抗することはできな
いであろうし、また、ビザンティン帝国に見られたように文明が完全に
死滅しないという理由はないであろう。天才をもっているという人は、
たしかに、きわめて少数であるし、また常に少数にとどまる傾向がある。
しかし、その少数の天才を確保するために、彼らの成長しうるような土
壌を残しておくことが必要である。天才は、自由の雰囲気の中において
のみ、自由に呼吸することができる。天才ある人々は、天才であるが故
に、他のいかなる人々よりも更に個性的である。したがって、社会がそ
の成員たちのために、各自独特の性格を形成するの労を省いてやろうと
して提供する少数の鋳型に、天才ある人々が自分を適合させようとすれ
ば、ほかの人々以上に、有害な抑圧をこうむらずにはいないのである。
もしも彼らが、心臆して、これらの鋳型の一つに押しこまれることを許
し、かような抑圧の下では伸びることのできない彼ら自身の素質をすべ
て未発展のままに放置することを許すならば、社会は、彼らの天才によ
って利益するところはほとんどないことになるであろう。もしも彼らが
強い性格の人物であって、その規範を打ち破るという場合には、彼らは、
彼らを平凡化しえなかった社会の注意人物となり、「狂暴」とか「奇矯」
とか、その他いろいろな厳重な警告をもって指摘されるのである。

 以上述べてきたように、私は、天才の重要性を強調するものであり、
また、思想においても実行においても自由に天才を発揮することを許す
ことの必要を強調するものである。というわけは、私は、理論において
は何びともこの主張を否定しないであろうということを十分承知しては
いるが、同時にまた、実際上は、ほとんどすべての人々がこの主張に全
く無関心であるということをも、よく知っているからである。世人は、
天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことがで
きるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、
すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんど
すべての人々が、天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わな
いにせよ、心の底では、自分たちは天才がなくても十分やってゆけると
考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむに足
りない。独創性こそ、独創性でない人々には正にその効用を感知するこ
とのできない一事なのである。彼らは、独創性が彼らのために何をなし
うるかを理解することができない。また、どうして彼らにそのようなこ
とができよう。もしも彼らが、独創性が彼らのために何をなすであろう
かを理解できるとすれば、それは(もはや)独創性ではないであろう。
独創性が彼らのために果たすべきまず第一の奉仕は、彼らの眼を開くと
いうことである。もしもこのことがひとたび十分なされるならば、彼ら
は、彼ら自身が独創的となる機会をもつこととなるであろう。その時の
到来するまでは、彼らは、何びとかが率先して為さない限りいかなる仕
事もなされたためしがないということ、また、現存する一切の善いこと
は独創性の成果であるということを想起して、謙遜な態度で、今後にお
いても独創性の成就すべき仕事がなお残されていることを信じさせるべ
きである。また、彼らが独創性の必要を自覚することが少なければ少な
いほど、彼らはますますそれを必要としているのであることを、確信さ
せるべきである。