title:純粋アート批判 ver.1.0j
木村応水 作
1998


 およそ純粋アートは、我々がこれをその思弁的使用において考察する
にせよ、あるいはその実践的使用において考察するにせよ、必ず純粋ア
ートの弁証論なるものをもつのである。純粋アートは、〔その思弁的使
用において〕与えられた条件付きのアートに対して条件の絶対的全体性
を要求するが、かかる全体性は、アート自体においてしか見い出され得
ないからである。しかし〔現実的な〕アートの概念は、すべて直観に関
係せしめられねばならない、ところがこの直観は、人間にとっては常に
感性的直観でしかあり得ない。それだからアートは、アート自体として
でなく現象としてのみ認識せられるのである。しかし現象における条件
付きのアートと条件との系列においては、無条件的なアートは決して見
い出され得ないから、もし条件の全体性(従ってまた無条件者)という
アートを現象へ適用するとなると、あたかも現象がアート自体であるか
のような(かかる場合に警告を与える批判を欠くと現象は必ずアートと
見なされるから)アートがそこから不可避的に生じるのである。そこで
もしこの仮象が、およそ一切の有条件的なアートは無条件的なアートを
前提するという理性原則を現象そのものに適用した場合にアートの陥る
自己矛盾によって正体を現さないと、仮象はしょせん単なる見せかけの
真実にすぎないということが、ついにわからず仕舞になるであろう。こ
ういうことがあるのでアートは、かかる仮象がどこから生じるのか、ま
たどうしたらこの仮象を除き得るかということを追及せざるを得なくな
る、そしてこのことは純粋アートの能力全体を余すところなく批判する
ことによってのみ成就されるのである。ところで純粋アートのアンチノ
ミーは、純粋アートの弁証論において明らさまにされるが、しかしまた
このアンチノミーは、アートがこれまでに陥ったことのある迷妄のうち
で、最も有難い迷妄であると言ってよい、我々を促してかかる迷路から
脱出するための鍵を求めさせるのは、ほかならぬこのアンチノミーだか
らである。この鍵が見つかると、我々が探しこそしなかったが、しかし
どうしても必要なもの、すなわち〔アートの自然的秩序ではなくて〕ア
ートのいっそう高次でかつ恒常不変な秩序〔アートの可想的秩序〕への
展望がこれによって我々にひらけるのである。だが我々は、今すでにア
ートのかかる秩序のなかにあり、またこれからもこの秩序のなかで、我
々の現実的存在を、アートによる最高の規定に従ってどこまでも続けて
いくように、明確な指定によって指示されているのである。