title:Shall we dance? ver.1.0j
木村応水 作
1997


 『オネーギン』 プーシキン
 カツレツの燃える脂を洗うために、喉はなおも酒杯を求めて渇いてい
るが、プレジェ時計の鐘の音が、新作バレエの開幕を告げている。劇場
の意地の悪い立法者で、魅惑的な女優の移り気な崇拝者、楽屋の名誉市
民たるオネーギンは、さっそく劇場へ飛んで行く。そこでは誰もが我が
物顔に、アントルシャに喝采を送ろう、フェードルやクレオパトラにヒ
スを飛ばそう、モイーナを呼び出そうと待ち構えている。(自分の声を
ひとに聞いてもらうために。)
 魔法の国よ! そこはむかし、大胆な風刺詩の王であり自由の友たる
フォンヴィージンガ、人まね上手なクニャジニーンが、はなやかな令名
をあげたところ、また劇作家のオーゼロフがうら若いセミョーノワと、
満場の涙と拍手の夢中の年貢を分けあったところ、わがカチェーニンが
コルネーユの偉才をよみがえらせ、辛辣なシャホフスコイが騒々しい喜
劇の群を引き出したところ、バレエの大家ディドローが栄誉の冠をいた
だいたところ。それに、ああそここそは、楽屋の壁の片隅で、私の若き
日々が飛び去ったところなのだ。
 私の女神らよ! 君たちは今どうしているのか。どこにいるのか。私
の悲しい声に耳傾けておくれ。今も昔のままなのか。それとも他のおと
めらが、君たちに取って代ってしまったのか。ふたたび私は君たちの合
唱の声が聞けるだろうか。ロシアの舞踏の神の、魂あふれる飛しょうが
見られるだろうか。それとも打ち沈んだ私の視線は、わびしい舞台にな
じみの顔を見つけられず、幻滅の柄付眼鏡を縁なき観客へかざして、他
人の歓楽を冷ややかに眺めながら、私は声も立てずにあくびをして、過
ぎ去った昔をさびしく思い浮かべるのか。
 さて、劇場は早くも大入り満員、浅敷はきらきら輝き、椅子席や立見
席は沸き立ち返り、天井浅敷の観客はもう待ち切れずに拍手している。
と、幕がさらさら巻きあげられる。絢爛たる、風のごときイストーミナ
が、魔法の胡弓の命ずるままに、ニンフの群に囲まれて立っている。と
見るまに彼女は片足で床に触れ、片足でゆるやかに旋回しつつ、不意に
跳びはねるかと思えば、不意にひらりと宙を飛ぶ。その飛ぶさまは、ま
るで一枚の綿毛が風の神の口に吹かれるよう。裾をきりきり巻きつける
かと思えば、さらさらと振りほどき、眼にも止まらぬ早業で足と足を打
ちあわす。
 破れんばかりの拍手喝采。その時オネーギンが姿を現わし、椅子席の
あいだを悠然と歩きながら、二重ガラスの柄付眼鏡をかざして浅敷の見
知らぬ貴婦人たちをちらりと眺め、二階席、三階席へ視線を投げ、劇場
じゅうを見て取った。観客の顔にも化粧にも、彼はひどく不満である。
あちこちの紳士たちと軽く会釈を交したあと、彼はまるで気のなさそう
に舞台へ一瞥をくれ、すぐに背を向けるとあくびをして、こうつぶやい
た。「もうみんな入れ替っていいころだ。長いことバレエを我慢してき
たが、もうディドローも鼻についた。」


 『城砦』 クローニング
「あたくしが、前から芝居に行く約束があったのをほっぽらかして、こ
こに来たんだっていったら、あなた、得意になって、却って困るかしら。
ニコル・ワトスン、おぼえていらっしゃる? あの人、今日あたくしを
バレーに連れて行く筈だったのよ、あたくし、バレーが大好きなの、あ
たくしの子供っぽい趣味、どう思いになる? マッシーンが『気まぐれ
な店』に出ているの」


 『花物語』 オルコット
 彼女はダンスが好きなので、バレーガールになるのだという、勝手な
アイディアを持っていた。しかしだれでも、それには反対であった。彼
女の品のよい性格も、そうしたことは、若い少女にとっての生活ではな
いことを告げた。


 『ぼくはシュテイラーではない』 マックス・フリッシュ
 今となってはもうあたくしには、芸術しか残っていないんだわ、とユ
ーリカはときどき考えた、そしてそう思ってはまた新たに、スイスのあ
る週間写真新聞(たった今友人たちが送ってくれたのである!)の第一
面に見入ったものだ。そこには大きくバレリーナ、美しいユーリカの姿
が載っていた。しかも、ユーリカ一人っきりで! それは去年の冬に撮
った写真だったが、例のバレリーナの薄い紗のスカートにちらちら光の
あたっているところなど、ほとんどドガを思いださせるようなすばらし
い写真だったという。ユーリカは、撮られるときにいろいろ厄介なこと
のあったその写真が、いつか発表されるだろうとは、まったく思っても
いなかった。ところが今、八月の末になって、新しい演劇シーズンの初
めを飾る大変気の利いた写真として、それが発表されたのだ。写真は、
ユーリカを背後から、左脚をさっとふりあげた姿勢でとったもので、彼
女は明るい横顔で写っていた。流れるような、しかもそれでいてピタッ
ときまっている腕の位置といい、そこからつぼみのように開きだそうと
している両の手といい、すべて完璧だった。また写真の下の説明文は、
いつもと同様かなり馬鹿らしいものだったが、しかし少なくとも根本的
に間違っているわけでもなく、ともかくユーリカの見たところでは、こ
の新聞にしては上乗の出来だった。ともあれこれは決して取るに足らぬ
新聞ではないのだ。ユーリカはその発行部数を知って、軽いめまいを感
じた。では、いまや大変な数のユーリカがいるのだ、新聞売り場のユー
リカ、汽車の中のユーリカ、家庭のだんらんの中のユーリカ、スープ皿
の傍らユーリカ、いたるところのユーリカ、海辺のテントのどこかにい
るユーリカ、どんな上流ホテルのロビーにもいるユーリカ、しかしとく
に新聞売り場、この国のすべての新聞売り場にいるユーリカ、ときには
外国にさえも行っているユーリカ。それがまるまる一週間続く。それか
ら後になると今度は、歯医者の待合室におけるユーリカ、しかしまたニュ
ーヨークの公立図書館にもあって、要求次第いつでも出てくるユーリカ、
そしてあちらこちらの孤独な部屋のベッドの上にもおかれているユーリ
カ。決してユーリカはこれを誇ったわけではない、決してそうではない、
かえってこの少々粗悪な紙に刷られている新聞を手にするたびに、気を
悪くしたくらいだ。もっとも、それにもかかわらず、これが少なくとも
すばらしい写真であること、踊りという観点から見て、彼女自身なんら
非のうちどころがないということは、何にもまして彼女を喜ばせた。彼
女が美しいこと、いや、並はずれて美しく撮れていることも、彼女は見
逃さなかった。いつ、ああ、いつの日にまたあたしは踊ることができる
だろう? 彼女は身体を倒し、まぶたを閉じて、彼女が、ドガのスカー
トをつけたあのユーリカが、あかあかと照らしだされた、誰もいない舞
台に進みでてゆくさまを思い描こうと努めた。埃の渦巻く闇にかこまれ、
スポットライトの青みがかった光の奔流をあびると、ただちに彼女、ユ
ーリカは、人間関係のあらゆるいやらしさを逃れ、ただ光だけをこの世
の何にもまして重いものに感じだす、するとそれから、ああ、それから、
第一のどんちょうがすっと横にひかれると、はやユーリカは爪先で姿勢
をととのえて待ち、そして第二の、もっと重いどんんちょうが、八秒間
さわさわと音たててあがるとともに、門が開かれるのだ、最前列のあの
はれやかな顔にみちた、ほの暗い客席への門が。そして、はやすでに鳴
っていたオーケストラが、今その響のすべての力をあげて、彼女の足元
に、波とうのように鳴り響くと(ああ、この音楽こそ魅惑、ユーリカを
めぐる魔法の輪、人誰もが見てしかも捉ええぬ魔法の輪である)、舞台
の像にフットライトが燃えあがり、上のいわゆるブリッジにもライトが
燃えあがり、あたかもユーリカを灼き尽くそうというかのように眩く輝
いて、彼女はこの世のこといっさいを忘れてしまう。感じるのはただ、
今このときの空間、彼女を待ちうけるその空間と、かつて舞台以外のど
こにも感じたことのない喜悦、言語に尽くしがたい喜悦、怖れのあまり
ただ耐えしのばなければならぬほどの喜悦だけ。それから、彼女が頭を
めぐらし(ちょうどあの第一面の写真のように)、いまや彼女の目の輝
きは最上階の天井浅敷の人々にも見えているのがわかると、そう、音楽
はただ彼女の肉体の中でのみ鳴るかのように思われ、最初のステップを
踏みだす、熱中したヴァイオリン奏者の髪が額にかぶさって揺れはじめ
る。吸奏者たちの頬がはちきれんばかりにふくれあがる、燕尾服の尻を
ふりたてふりたてて、かの有名な指揮者は、ユーリカに、ただユーリカ
にだけ、目をむけている、と、今度はコントラバスの健気な若者たちが、
森の木こりのように働きだす、打楽器のあの小粋な男、全身これ神経の
束と化して機をうかがっていたあの男が、ついにその最初の一打をとら
える、ああ、なんという恍惚、彼らみながたてる音、主題のこの大波、
高まってはまたひくこのとどろき、この音楽は、しかしただ彼女のうち、
彼女の肉体の中でのみ、所を得るのだ。彼女の肉体からそれは生まれる
のだ、目に見えるもの、形を得たものとして。しかし、それにもかかわ
らず、ユーリカは、その空想の中で、ただの一度でも、この最初のワン
・ステップから先に出たことがなかった。


 『禁色』 三島由紀夫
「しかしね」、いかほどか俊輔の口調は穏和になった。「君の種族には
現実の存在になれない運命があるらしいよ。その代り事芸術に関する限
り、君の種族は現実に対する勇敢きわまる敵手になるのだ。この道の人
たちは生まれながらに『表現』の天職を担っているらしい。どうも私に
はそう思われるのだ。表現という行為は、現実にまたがって、そいつに
止めを刺し、その息の根を止める行為だ。そうしておいて、いつも表現
は現実の遺産相続人になる。現実という奴は、それに動かされるものに
よって逆に動かされ、それに支配されるものによって逆に支配されてい
る。たとえば現実を動かし現実を支配する端的な現実の坦当者は『民衆』
だよ。ところが表現となると、これは動かしがたいものだ。金輪際動か
しがたいものだ。その坦当者が『芸術家』なのだ。表現だけが現実に現
実らしさを与えることができるし、リアリティーは現実の中にはなく表
現の中にだけある。現実は表現に比べればずっと抽象的だ。現実の世界
には、人間、男、女、恋人同士、家庭、等々が雑居しているだけだ。表
現の世界はこれに反して、人間性、男らしさ、女らしさ、恋人同士たる
ふさわしい恋人どうし、家庭をして家庭たらしめているもの、等々を代
表している。表現は現実の核心をつかみ出すが現実に足をとられはしな
い。表現はカゲロウのように水のおもてに姿を映し、その水面すれすれ
に飛びちがい、いつのまにか水の上に産卵する。その幼虫は天空をかけ
めぐる日のために水中で育ち、水中の秘密に精通し、しかも水の世界を
軽侮している。これこそは君たちの種族の使命なんだ。いつか君は多数
決原理の悩みを私に訴えたことがあったね。私は君の悩みを今では信じ
ない。愛し合う男と女のどこに独創的なものがあるのだ。近代社会では
恋愛の動機に本能の湿る部分がますます希薄になりつつある。慣習と模
倣が最初の衝動にさえしみ込んでいる。何の模倣だと思う? 浅はかな
芸術の模倣だ。多くの若い男女が愚かしくも、芸術にえがかれた恋愛に
だけ本当の恋愛があって、自分たちの恋はその拙劣な模倣にすぎぬこと
を確信している。この間私は、その道の一人だという男性舞踊者の演ず
るロマン的なバレエを見た。彼の恋人役ほど、恋する男の情緒を見事に
繊細に表現したものはなかった。ところで彼が恋しているのは目前の美
しいバレリーナではなかったのだ。つまらない端役でほんのわずかの間
舞台に姿を見せる弟子の少年だったのだ。彼の演技がああまで見物を酔
わせたのは、それが完全に人工的なものだったからだ。舞台の相手役の
美しいバレリーナに彼が欲望を持たなかったからだ。さればこそ何も知
らない見物の若い男女にとっては、彼の演ずる恋は、いわばこの世の恋
愛の亀鑑たりえたわけだね」


 『雪国』 川端康成
 彼の西洋舞踊趣味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、
子供の時から歌舞伎芝居になじんでいたが、学生の頃は好みが踊りや所
作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを究めぬと気のすまない
たちゆえ、古い記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日
本踊りの新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くようになっ
た。そうして日本踊りの伝統の眠りにも新しい試みのひとりよがりにも、
当然なまなましい不満を覚えて、もうこの上は自分が実際運動のなかへ
身を投じて行くほかないという気持ちに狩り立てられ、日本踊りの若手
からも誘いかけられた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。
日本踊りは全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書物と写真を
集め、ポスタアやプログラムの類まで苦労して外国から手に入れた。異
国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけ
た喜びは、目のあたり西洋人の踊りを見ることが出来ないというところ
にあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだっ
た。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなか
った。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はな
く、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気ままな想像で、舞踊家
の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から
浮かぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこ
がれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文
筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休
めとなることもあるのだった。


 『とりかえばや秘文』 舟橋聖一
 ところで、二十世紀初頭の世界的なバレリーナであるアンナ・パヴロ
バが来日して「瀕死の白鳥」を踊ったとき、六代目は前後四回見物した
が、どうしても幕切れで白鳥が死ぬ感じを出す秘密がわからない。が、
彼女の楽屋へは絶対はいれない。それで大道具の親方の金井由太郎の絆
天を借りて、道具方に化けて、舞台へあがり、上手の袖から、パヴロバ
を見ていた。白鳥は足を伸ばし、白い衣装から、羽をだらりと垂れて、
段々に衰えて行く。そのとき、パヴロバは、一つも息をしていない。六
代目は思わず、これだッと独語した。幕が降りてから、六代目は舞台へ
進んで、自ら名乗った。その時の二人の対談が、六代目の自著の中に載
っている。

 菊「僕は尾上菊五郎です」
 パ「知っていました」
 菊「実はお前さんの『瀕死の白鳥』はとても素敵だ」
 パ「何処が一番いいと思うか」
 菊「終りのところがだ」
 パ「ありがとう。どうしてよかった?」
 菊「お前さんは、息をとめていたでしょう」
 パ「なぜ、それがわかりましたか」
 菊「実は大道具の親方の絆天を借りて、すぐそこで見ていたんだ」
 パ「まア人が悪い」

 それで二人は笑ったが、パヴロバがその晩から六代目の家へ来て二晩
程泊りこみ、こんどは逆に、六代目の踊りを、堪能するまで見物した。
六代目いわく、
「そのとき見て驚いたのは、パヴロバの右足の親指が短いのだ。爪まで
育たない。ところが僕も同じなんだ。見て下さい。右と左とくらべると、
こっちが短いでしょう。その時二人は、
『芸だこでしょう』
と云って笑った訳だ。
 舞台に立つ者は、人から何とか云われるまでには、一カ所や二カ所は、
片輪になる位の修業はいるもんです」


 『遅すぎた夏』 ルードルフ・ハーゲンシュタンゲ
 わたしはこれまでにも、インドの、そしてその他のアジアの踊りを見
たことがあった。それらはほとんど、男の踊りをべつとすれば、すべて
がすべてといってよいほど、宗教体操と曲芸風の手足の動かし方からな
っていた。それらは、ロシアのクラッシックバレーから生まれた筋肉質
のヨーロッパ舞踊とはちがって、いっぽうでは彫そ的、というよりは静
的であり、他方その内面にひそむものは無限に動的であり、表情ゆたか
なのである。自身を秘めたものでもあり、求心的、より精神的、そして
儀式的である。神、はやっぱりアジアからやってきたのであろうか。


 『グルジェフ・弟子たちに語る』 グルジェフ
問い キリストは舞踊を教えましたか?
答え その場にいなかったので、わからない。舞踊と体操を区別する必
   がある。
   この二つは異なるものである。キリストの弟子たちが踊ったかど
   うかは、知らない。しかし、キリストが訓練を受けた所で、「宗
   教体操」を教えたことは確かである。

問い 舞踊は身体の統御にだけ役立つのですか、それとも神秘的な意味
   も持っていますか?
答え 舞踊は知性(マインド)のためである。舞踊は魂には何も与えな
   い。魂は何も必要としない。舞踊には意味があり、一つ一つの動
   き(ムーブメント)が意味を持つ。