title:ソクラテスの弁明 ver.1.0j
木村応水 作
1995


 『ニューロマンサー』 ウイリアム・ギブソン
 「あいつ、ぼくと話したぜ、モリイ。ぼくたちみんなに話したんだろ
うな。おまえ、ケイス、それに話してわかるアーミテジの一部。あいつ
本当にはぼくたちのこと、わかんないんだ。そりゃプロフィールは握っ
てるけど、あれは単なる統計だもの。おまえは統計的動物かもしれない
し、ケイスは正にそのもの。でもぼくには、本質からして定量化からし
て定量化できない素質てのがある」
と水を飲む。
「で、そいつは、どういうことだい、ピーター」
とモリイが無表情な声で尋ねた。
リヴィエラはにこやかに、
「天邪鬼さ」
と女性ふたりのところに戻り、深く彫りこまれた厚手の水晶の筒に残っ
た水に渦を起こしながら、その重みを楽しむように、
「どうでもいい行為を楽しむような心さ。それで、ぼくは決心したんだ、
モリイ、実にどうでもいい決心をね」


 『テスト氏』 ヴァレリー
 私は、小説や芝居には向かぬ人間だ。それらのなかのさまざまなすば
らしい場面、怒りだとか情熱だとか悲劇的な瞬間だとかいったものは、
私を高揚させてくれるどころではない、私の眼に写るのは、消えかかっ
たみじめな光や、退化した状態ばかりだ、そこでは、ありとあらゆる愚
かしさが、我物顔にふるまい、人間は、単純化されて愚鈍そのものにな
り、おのれをとりまく水の流れに応じて泳ぐかわりに溺れてしまうのだ。


 『収容所群島』 ソルジェニーツイン
 もし物事が次のように簡単だったら、どんなに楽なことか! どこか
に悪党がいて、悪賢く悪事を働いており、この悪党どもをただ他の人び
とから区別して、抹殺さえすればよいのだったら。ところが、善と悪と
を区別する境界線は各人の心のなかを横切っているのであり、いったい、
誰が自分の心の一部を抹殺することができるだろうか。
人生の流れによって、この境界線はその心の上を移動していく。時には
歓喜する悪に圧迫されて、時には花開く善に場所をあけながら。同一人
物がその年齢によって、または置かれた環境によって、まったく別人に
なることがある。悪魔に近い人間になったり、聖人に近い人間になった
りする。が、その名前は変わらない。そして、私たちはなにもかもをそ
の名前のせいにする。
ソクラテスはわれわれに遺言した、自分自身を知れ!


 『国家』 プラトン
 「では、アデイマントス」とソクラテスは言った。「われわれは魂に
ついてもこれと同じように、最善の自然的素質に恵まれた魂は、悪い教
育を受けると、特別に悪くなると言うべきではないだろうか? それと
も君は、大それた悪事や完全な極悪非道というものが、凡庸な自然的素
質から生み出されると思うかね? むしろそれは、養育によって損なわ
れた場合の力強い自然的素質からこそ生み出されるのであって、弱々し
い自然的素質は、善、悪いずれにせよ、大したことの原因とはならない
だろうとは思わないかね?」


 『アンナ・カレーニナ』 トルストイ
 オブロンスキーはリョービンの話を聞きながら、かすかに優しい微笑
を浮かべていた。
「そりゃもちろんさ! でも、きみはこの前ぼくのところへやってきて
なんて言った? え、覚えてるだろう。ぼくがこの人生にあまり快楽ば
かり求めてると言って、攻撃したじゃないか! いや、『モラリストの
きみよ、そう固くなりたもうな』だよ」
「いや、そりゃ、やっぱり、この人生にもいいことはあるさ・・・・」
リョービンは口ごもった。「ぼくにもわからないがね。ただわかってい
るのは、人間なんてもうじき死んでしまうってことさ」
「なぜもうじきなんだい?」
「しかしね、死ということを考えると、人生の魅力は減るかもしれない
けど、そのかわり、気持ちはずっと落ち着いてくるね」
「そりゃ反対だよ。終りに近づくほど、よけい楽しくなるものさ。とこ
ろで、ぼくはそろそろ行かなくちゃ」オブロンスキーは十度めにやっと
腰を上げながら言った。

 彼は自分のしていることがいいか悪いか、自分でもわからなかったし、
そんなことをいまさら証明してみようとも思わなかったにちがいない。
しかし、彼はそれについて、人と話したり考えたりすることを、努めて
避けるようにしていた。
いろんな批判はかえって彼に疑惑をいだかせ、なすべきこと、なすべか
らざることを、彼が見分ける妨げになった。ところが、なにも考えない
で、ただ生活をしているときには、彼は自分の内部に、絶対公平な裁判
官の存在をたえず感じていた。その裁判官は、二つの可能な行為のうち
から、どちらがよくてどちらが悪いかを、はっきり決定してくれた。そ
して、彼が少しでも間違った行為をすると、彼はすぐにそれを直感する
のであった。
こうして彼は、私とは何者であり、なんのためにこの世に生きているか
を知らずに、いや、それを知る可能性があるとも考えずに、その無知を
悩むあまり、自殺を恐れるまでになりながらも、それと同時に、この人
生における自分独特の一定の道をしっかり切り開きながら暮らしていた
のである。


 『ドリアン・グレイの肖像』 オスカー・ワイルド
 「善良だということは、自分自身との調和状態にあるという意味だ」
細くとがった青白い指で盃の細い脚にさわりながら卿は言った。「不和
とはやむをえず他人と同調することだ。大切なのは自分の生活だ。やか
まし屋のピューリタンにでもなろうというのならば、隣人の生き方につ
いて自分の道徳上の見解をきこえよがしに吹聴するのもよかろうが、実
際のところ、他人の生活など自分にとっては用のないものなのだ。だい
いち、個人主義のほうがはるかに高い目標をもっているではないか。現
代では、時代の標準を受け入れることが道徳的だとされているが、ぼく
の考えでは、教養ある人間が時代の標準を甘んじて受け入れるなどとい
うことは、もっともはなはだしき不道徳的行為だ」


 『この人を見よ』 ニーチェ
 宗教とは賤民の関心事である。


 『ソクラテスの弁明』 プラトン
 本当に正義のために戦わんと欲する者は、もし彼がたとえしばらくの
間でも生きていようと思うならば、かならず私人として生活すべきであ
って、公人として活動すべきではないのである。


 『哲学入門』 ヤスパース
 哲学的な人間にして、この世における宗教団体に決定的に所属するこ
となくして、神の前に決定的に所属することなくして、神の前にただ独
りで立って、「哲学すること」は死を学ぶことであるという命題を実現
した人はまれであります。


 『フローティング・オペラ』 ジョン・バース
 重要なことは、「一個の完全なる人間」の「内心の調和」だと、彼は
言った。真の革命というものは、個人の魂と精神の中でなされなければ
ならない。集団的に物質的なものをたとえ熱心に求めても、それはかえ
って自らの魂の中に内在する無秩序を忘れさせてしまうにすぎない、と。


 『すばらしい新世界』 オルダス・ハクスリー
 「芸術に科学、あなたは幸福のためにかなり高価な犠牲をお払いにな
ったようですね」と、野蛮人は二人きりになると言った。「ほかにまだ
ありますか」
「うむ、もちろん宗教もそうだ」と総統は答えた。「むかしは神と呼ば
れるものがあった、九年戦争以前にはね。だが、私はうっかりしていた。
君は神については何もかも知っているはずだね」
「ええ、まあ・・・・」と野蛮人は口ごもった。彼は、孤独、夜、月下
に青白く横たわる地卓(メーサ)、断崖、ほの暗い闇への跳躍、死など
について何か語りたかった。彼は口に出して話したかった。しかし、言
葉がなかった。シェイクスピアにさえ見当たらなかった。
 一方、総統は部屋の反対側へとゆき、書棚の間の壁にはめ込まれた大
きな金庫の鍵をあけていた。重い扉が開いた。内側のくらがりの中をか
きまわしながら、「宗教は私にとってはいつもとても興味のある問題だ
った」と総統は言った。彼は分厚い黒い書物を引き出した。「たとえば、
君はこんな本を読んだことはないだろう」
野蛮人はそれを手にとってみた。「新約並びに旧約聖書」と彼はタイト
ル・ページを声を出して読んだ。
「これもそうだろう」それは小さな書物で表紙がとれていた。
「キリストのまねび」(中世のキリスト教神学者、トマス・ケンピス著)
「これも」総統はまた一冊手渡した。
「宗教的経験の種々相、ウイリアム・ジェイムス著」
「私はまだまだもっとたくさんもっているんだよ」ムスタファ・モンド
はまたその席に帰って言葉を続けた。「昔の好色文学もごっそり集まっ
ているしね。神は金庫に、フォードは書棚に、か」彼は笑い声を立てて
彼の天下晴れての蔵書を、書棚や朗読器のポピンと録音版巻取り器で一
杯の整理棚を指さした。
「でも、もしあなたが神について御存知なら、なぜみんなに教えておや
りにならぬのですか」と野蛮人は怒りを込めて尋ねた。「なぜ神に関す
るこういう書物をみんなに与えておやりにならぬのですか」
「それは『オセロ』を与えないのと全く同じ理由からだよ。つまり、古
いものだからだ。こういうものは何百年以前の神のことを書いてあるの
だ。現在の神じゃない」


 『アルクトウルスへの旅』 デイビッド・リンゼイ
 「危険があるなら、あの男にそう言ってやらなければ」マスカルは言
った。
「教えたがってばかりいる人間は、何も学びはしないものよ」女が冷や
かに言い返した。彼女は腕を押さえてマスカルを引き止め、注視をつづ
けた。


 『ベーコン随筆集』 フランシス・ベーコン
 なるほど、哲学を少しばかりかじると、人間の心は無心論に傾くが、
しかし、哲学を深く究めると、再び宗教に戻る。


 『暗い歳月の流れに』 エイヴィント・ユーンソン
どうやって人は神々を殺すのか? 忘れることによってだ。


 『その男ゾルバ』 ニコス・カザンザキス
神がゼウスの魂をお守り下さいますように!


 『ネッカル河の小舟』 エクトール・ビアンシオッティ
 存在の一体感がなんであるのかを悟るには、膝を強くぶつけるだけで
いい。苦痛、ここにこそ神秘があり、神々のうかつ、私達を全くの痛み
の意識に落とし込む余剰がある。


 『流離の王イラノン』 ラヴクラフト
 その夜、テロースの人々は他国者を馬小屋にとめた。朝になると執政
官の一人がやって来て、靴直しのエトックの所へ行き、徒弟奉公をする
ようにと言った。
「でも、私は歌うたいのイラノン。靴直しになる気はございません」
「テロースに住む者は額に汗して働かねばならぬ。それが掟だ」
「なぜ精出して働くのでしょう。楽しく暮らすためではないでしょうか。
もっとも働くためにだけ働くのでしたら、一体いつ幸福にめぐりあえる
のでございましょう。生きるためには働くといっても、人生は美しいも
のと歌でできているのではございませんか。歌うたいなど要らぬとおっ
しゃるのでしたら、労働は一体何処で実を結ぶのでしょう。歌ひとつ知
らず働き続けるのは、終わりのない辛い旅と同じこと。それならいっそ
死んだ方がよほど楽しいのではありますまいか」


 『悪霊』 ドストエフスキー
 「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なの
です?」私は尋ねた。
私たちが何を話していたかを思い出そうとでもするように、彼はぼんや
りとこちらを見た。
「ぼくは・・・・ぼくはまだよくわかりません・・・・二つの偏見が思
いとどまらせていますね。二つのこと。二つきりです。一つは大変小さ
なことで、もう一つは大変大きなことです。でもその小さなことも、や
はり大きなことにちがいない」
「小さなことというと?」
「痛いことです」
「痛いこと? そんなことが重要ですかね・・・・この場合に?」
「一番の問題ですよ。二種の人があって、非常な悲しみや憎しみから自
殺する人たち、でなければ気が違うとか、いや、なんでも同じだけれど
・・・・要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛の
ことはあまり考えないで、突然です。ところが思慮を持ってやる人たち、
この人たちはたくさん考えますね」
「思慮を持ってやる人なんかがいるものですかね?」
「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に
多い。みんなです」
「まさか、みんなとはね?」
彼は口をつぐんでいた。
「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないものですかね?」
「ひとつ想像してみてください」彼は私の前に立ちどまった。「大きな
アパートの建物ほどもある石を想像してみてください。それが宙に吊し
てあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちて
きたら、痛いですかね?」
「建物ほどの石? もちろん、怖いでしょうね」
「ぼくは怖いかどうかを言っているんじゃない、痛いでしょうかね?」
「山ほどの石、何十億キロのでしょう? 痛いも何もあるものですか」
「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。石がぶらさがっている間、
あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどく怖がりますよ。どんな第一流
の学者だって、第一流の医者だって、みんな怖がるに違いない。だれも
が、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうと怖がる」
「なるほど、では第二の原因は、大きい方は?」
「あの世です」
「というと、神罰ですか?」
「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」
「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょう
に?」彼は再び押し黙った。
「あなたは、多分、自分に照らして判断されているんじゃありません
か?」
「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」彼は赤くなって言
った。
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、は
じめて得られるのです。これがすべての目的です」
「目的? でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなり
はしませんか?」
「ええ、だれひとり」彼はきっぱりと言いきった。
「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解している
し」と私が口をはさんだ。
「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」
「それが卑劣なんです。そこに一切の欺瞞のもとがあるんだ!」彼の目
がきらきらと輝きだした。「生は苦痛です。生は恐怖です。だから人間
は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。今人間が生を愛するの
は、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
今は生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここに一切の欺瞞の元
があるわけです。今の人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新し
い人間が出て来ますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもい
い人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ち勝つものが、み
ずから神になる。そして、あの神はいなくなる」
「してみると、今は神はいるわけですね、あなたの考えだと?」
「神はいないが、神はいるんです。石に痛みはないが、石からの恐怖に
は痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ち勝つ者が、
みずから神になる。その新しい生が、新しい人間が、新しい一切が生ま
れる・・・・そのとき歴史が二つの部分に分けられる、ゴリラから神の
絶滅までと、神の絶滅から・・・・」
「ゴリラまでですか?」
「・・・・地球と、人間の肉体的な変化までです。人間は神となって、
肉体的に変化する。世界も変るし、事物も、思想も、感情のすべても変
る。どうです。そのときは人間も肉体的に変化するでしょう?」
「生きていても、生きていなくても同じだということになったら、みん
な自殺してしまうだろうし、それが変化ということになりますかね」
「それはどうでもいい。欺瞞が殺されるんです。最高の自由を望む者は、
だれも自分を殺す勇気を持たなくちゃならない。そして自分を殺す勇気
のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。その先には自由がない。こ
こに一切があって、その先は何もないんです。あえて自分を殺せる者が
神です。今や、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもで
きるはずです。ところが、だれもまだ一度としてそれをしたものがない」
「自殺者は何百万人といましたよ」
「ところが、いつもそのためにではない。いつだって恐怖を感じながら
で、その目的のためではなかった。恐怖を殺すためではなかった。恐怖
を殺すためだけに自殺する者が、たちまち神になるのです」

「きみ、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、かなり気のない調子だった。
「じゃ人生も好きですね?」
「ええ、人生も好きですよ、それがどうしました?」
「ピストル自殺を決意していても?」
「いいでしょう? なぜ一緒にするんです? 人生は人生、あれはあれ
ですよ。生は存在するけれど、死なんてまるでありゃしません」
「きみは未来の永遠の生を信ずるようになったんですか?」
「いや、未来の永遠じゃなくて、この地上の永遠の生ですよ。そういう
瞬間がある。その瞬間まで行きつくと、突然時間が静止して、永遠にな
るのです」