title:トマソン ver.1.0.1j
木村応水 作
1998.3


 はじめてタロウがそれを見たのは三週間前の夜だった。彼は霧のなか
に立ち、果物や野菜の売り手は毛布の上に商品をひろげていた。そのと
きも、胸を高鳴らせながら洞窟の口をのぞいたものだ。廃虚から拾って
きたネオンサインの折れ曲がった弧の下では、スープ売りの深鍋から湯
気が立ちのぼっていた。あらゆるものがまじりあい、ぼやけて、霧のな
かに溶けこんでいた。臨場感覚(テレプレゼンス)セットの画像は、こ
の橋の魔法と特異性の手がかりを与えてくれたにすぎない。ゆっくりと
歩を進め、ネオンのあぎとと廃品の表面が作りだすつぎはぎ細工のカー
ニバルのなかへはいりこむと、心からの畏怖にとらえられた。これはお
とぎの国だ。雨ざらしで銀色になったベニヤ板、忘れられた銀行の壁の
一部だった大理石の破片、プラスチックの波板、磨いた真鍮、スパンコー
ル、油絵のキャンバス、鏡、潮風に曇らされ、剥げてきたクロムめっき。
その物量の洪水を見て目がまわりそうになり、こんどの旅がむだでなか
ったことを知ったのだった。
 全世界をさがしても、これほど壮麗なトマソンはほかにふたつとない
だろう。

 タロウはコーヒーから立ちのぼる湯気を見つめ、フジツボだらけの自
転車を想像した。それ自身がかなり強力なトマソンといえる。ロブがそ
の用語に好奇心をかきたてられたようだったので、タロウはその言葉の
起源と、現在の用法でも意味を説明したが、それもノートブックに記録
されている。

  トマソンはアメリカのプロ野球選手で、とても
  ハンサムで、とても力持ちでした彼は1982
  年に、高給で迎えられて読売ジャイアンツに入
  団しました。やがて、彼のバットがボールに当
  たらないことが判明しました。作家でアルチザ
  ンでもある赤瀬川原平は、ある種の不要で不可
  解な記念碑、都市風景のなかにある無意味だが
  奇妙にアート的な物体を表現するのに、その名
  前を転用しました。しかし、その後、この用語
  はべつの色合いの意味を帯びるようになりまし
  た。もしお望みなら、日本の『現代用語の基礎
  知識』にアクセスして、最新の定義を翻訳しま
  しょうか。